2015年5月5日火曜日

三千話球題



 当ブログも3,000回目を迎えました。多くの読者の方々に支えられてここまでやってきました。


「ところでお前は山口百恵と桜田淳子とどっちが好きなんだ。」
「ハイ、山口百恵です。」
「そうか、案外お前もすけべだな。」

 1974年4月、軟式野球部に入部初日、外野で球拾いをやっているところに先輩がつかつかとやって来て交わした初めての会話です。この先輩とは後に「永遠のライバル」と言われるようになることなど、この時は知る由もありませんでした。

 筆者と同学年となる山口百恵がデビューしたのは1973年、中学3年の時でした。桜田淳子、森昌子と「花の中3トリオ」を形成したことはご案内のとおりです。山口百恵のデビュー曲「としごろ」は思ったほど売れず、2曲目で起死回生を狙いました。

 「あ~なた~が望むなら~♪わたし~何を~されてもいいわ~♪い~けな~い娘だと~噂されてもい~い~♪」(作詞:千家和也)

 衝撃的な歌い出しで一世を風靡した「青い果実」がリリースされたのは1973年9月のことです。中学3年の秋、受験勉強も佳境に入ってくる頃に余計なことをしてくれたものです(笑)。これ一発で、「山口百恵=エッチ、桜田淳子=優等生」のイメージが確立しました。更に衝撃的だった「ひと夏の経験」がリリースされるのは1974年6月のことですから、上記の会話は「青い果実」のみに基づくものでした。社会文化史研究の上でも、上記会話は貴重な証言となります(笑)。


 同じ中学から入学した奴から「ヒマだから何かやろ~ぜぇ~」と誘われて、硬式野球部も見学に行きましたがお互い千葉県市川市から神奈川県に通う身だったので、楽そうな軟式にしておきました。ところがこの軟式野球部は、神奈川県高校軟式野球の過去18年の歴史で6回の県大会優勝を誇り、1964年には第9回全国高等学校軟式野球選手権大会に優勝した高校軟式球界の名門だったのです。

 筆者が入部した当時は弱体化していたようで、3年生が2人で2年生が7人、部員は9人でした。ところが2年生のM先輩とT先輩は硬式からも引っ張られそうになった逸材で、監督は「Mが9人いれば全国優勝できる!」と豪語しており、硬式の連中からは左腕快速球投手の「Tさんて何者?」とよく聞かれました。T先輩は姫路の出身で、東洋大姫路の硬式野球部からもスカウトされそうになったようです。

 1年の夏は1回戦で負けて3年生が2人抜け、1年生の3人のうち2人がレギュラーに加わって筆者が一人監督の横でスコアを付けることになりました。筆者のスコアブックとの付き合いはこの時からのことです。この時の経験が現在の「職業野球!実況中継」に活かされている訳です(笑)。

 途中出場した練習試合で中前打と左前打を放って2打数2安打、この試合をきっかけにライトのレギュラーポジションをつかみました。この頃には部員も20人近くに増えていました。硬式野球部しか知らない人は「何のこっちゃ」というところでしょうが、所詮軟式のレベルなどこの程度のもので、辞める奴も多い代わりに途中で入ってくる奴も多い。上記の2人の天才的先輩も、秋から入部したとのことでした。世の中広いもんで、部活などやっていない連中でも筆者など足許にも及ばない素質の持主は腐るほどいるものです。長続きしない奴も多いですが。まぁ、軟式ですから(笑)。


 我が部の冬のトレーニングは鶴見川の土手を延々と走り込むのが伝統でした。ひと冬過ぎるとチームの力はぐぅ~んと伸びます。付いてこれない奴も多いですが、伸びる奴は春になるとスウィングが見違える程鋭くなります。初めから出来上がった連中が入ってくる硬式と違って、中学時代は受験勉強しかやってこなかった素人の寄せ集めですから変化率が大きいのです。軟式でこれだけの冬のトレーニングを積むところは少ないのかもしれません。素人集団の我が部が、軟式とは言え神奈川で名門となった理由はここにあったと思います。2年の春に静岡商業と練習試合をやってもいい勝負でした。この頃には一番を打っていましたね。静岡商業は先輩が1964年に全国優勝した時の決勝の相手でもあります。

 成田での夏合宿、千本ノックとまではいきませんが、先輩からも夏合宿のノックはきついから気を付けておけと注意されていました。練習後にかじったレモンが甘く感じられたのはこの時だけです。合宿が終わり、最後の練習試合を習志野高校とやりました。この試合も一番でしたが、右中間に会心の三塁打を放ち、神奈川県予選から五番に起用されることとなりました。硬式ではこの年、習志野が甲子園で優勝しましたね。

 順調にベスト4まで勝ち進んで準決勝と決勝はダブルヘッダーとなります。予算が回って来ない軟式では、大会期間を短縮するために準決勝と決勝が同日に行われるのは常識です。準決勝の相手は強豪・日大藤沢でした。6対4とリードして終盤の守り、二死一二塁から左の強打者の打球が右中間を抜けていきます。ライトから打球を追いながら「入れ、入れ!」と叫ぶと、白球はツーバウンドでライトスタンドに吸い込まれていきました。さすが軟式!ふり向くと一塁ランナーはとっくにホームインして打者走者も三塁に達していましたが、エンタイトルツーベースですから三塁と二塁に戻されます。スタンドインしていなければ同点となっていたところですが、筆者の呪文が効いて野球の神様が粋な計らいをしてくれました。打球を追いながら「このままだと同点三塁打になるがフェンスを超えればエンタイトル二塁打でまだ1点リードだ」と冷静に考えて呪文を唱えたのが効きました(笑)。このまま1点差で逃げ切り、決勝でも湘南高校を破って20回大会にして7度目の優勝を飾ったのです。

 軟式では全国大会の前に神奈川、千葉、埼玉の代表校による南関東大会を勝たなければなりません。相手は市川高校でした。千葉県の市川市から神奈川県に通って神奈川代表となり、千葉県代表の市川高校と当たるとは皮肉な巡り合わせです。1点リードされた9回、一死後左前打を放ちました。監督のサインは盗塁、足から滑り込んでタッチアウト、ノータッチだと思い抗議するという高校球児にはあるまじき行動に出ましたが聞き入れられませんでした(←当たり前か!)。次打者のキャプテンが倒れて試合終了を告げるサイレンが千葉県高校野球の聖地・天台球場にこだまします。後に監督から「お前が盗塁を決めればバントエンドランで同点を狙いに行くつもりだった」と聞かされました。「泣くな筆者、来年がある」(笑)。


 3年生が7人抜けて素人集団により新チームが結成されます。五番ライトだった筆者が四番キャッチャーにコンバート、もう一人の2年のレギュラーをエースにしますが秋も春も1回戦コールド負け。この間も親父がプロ野球選手だった奴や、左腕から剛球と鋭い変化球を投げる奴などが入っては辞めていきました。この2人が残っていたら全国大会にも行けたでしょうね。翌春、2年生のサードをピッチャーにコンバートして何とか格好がつき、栃木の夏合宿も終わって最後の練習試合は軟式球界の最強校として名高い作新学院に胸を借ります。「勝負にならんな」と思って挑みました。ところがぎっちょん、試合は4対4の引分け、素人集団も例年のように夏になると多少は力を付けてくるものです。この試合ではスクイズのサインを読み切ってウエストしたのが忘れられません。キャッチャー時代最高のプレーでした。

 夏の神奈川予選は直前に捻挫した筆者以外は全員絶好調で、「10点打線」と呼ばれる快進撃を続けてベスト4に進みます。この年の硬式は1回戦負けだったのでヒマになった応援指導部まで団旗を掲げて応援に来てくれました。南関東大会は開催県から2校出場することができ、この年は神奈川が開催県なので準決勝を勝てば2年連続南関東大会進出です。この試合も「10点打線」が爆発し、あと1点でコールドというところまで行きました。「こいつらが南関東かよ~」という試合を見に来ていた1年先輩の声も聞こえましたが、何とエースがバテて逆転負け。2年生エースはセンスはあるがスタミナがないのは最初から分かっていたことで、継投などの対策をとらなかったことを悔やんだのは後年のことです。「やっと終わった~」というのが正直な感想でしたが、試合後のミーティングでは初めて人前で泣きましたね。

 筆者の手元に2年秋から3年夏までの手書きの成績表が残されています。マネージャーが記録をまとめて印刷してくれたものです。22試合に四番キャッチャーでフル出場(怪我で途中出場やファーストに回った試合はありますが)して、69打数23安打11得点13打点、12四球3犠打、12盗塁、二塁打5本、打率3割3分3厘。特筆すべきは三振が1個だけだったことです。10人のチームで唯一人ベンチからスタートした割にはよくやったと思いませんか?・・・・(四千話球題に続く)


 閑話休題、明日の3,001回から、実況中継を再開します。 





*1975年、夏の高校軟式神奈川県予選決勝、優勝を決める中前2点タイムリーを放った瞬間。神奈川新聞社のご厚意によりいただいた報道用写真。大会に入ってから不振が続いていましたがずっと五番に起用されて最後に期待に応えることができました。キャッチャーの構えからすると、低目ではあるものの外角やや中寄りに甘く入ってきたようです。最も得意にしていたコースでした。








*20回大会にして7度目の優勝。軟式では決勝戦だけ写真入りで報道されます。筆者の2点タイムリーで三番、四番の先輩がホームに還ってくるシーンが採用されました。
左下の写真は優勝旗と共に南側グラウンドで撮影。













 

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