2013年8月25日日曜日

犠牲フライの取扱いについて



 犠牲フライについては、1939年にアメリカでルール改正されて公式記録となり、日本では記録改訂作業に手間取り約1カ月程遅れて導入され、シーズン開始約1カ月後の昭和14年4月24日、阪急vsライオン3回戦の6回表阪急の攻撃で山下好一が史上初の公式記録としての犠牲フライとなる右犠飛を放ちました


 当ブログではスコアカードの記載から「犠牲フライ」と認められるケースは当ブログ発足次点から犠飛としてお伝えしてきたところです。昭和14年も3月18日の奈良友夫から4月18日のスタルヒンまで32本の犠牲フライが打ち上げられましたが公式記録では「凡打」扱いとなっているところ、当ブログでは全て「犠飛」として取扱い、レコードも残しております。


 昭和16年から公式記録では再び犠牲フライは「凡打」として取り扱われています。4月3日の小島利男の2本、4月6日の日比野武の「決勝犠飛」もスコアカードには「凡打」として記録されています。



 Wikipediaには「1942年に軍部命令で犠牲フライが打数にカウントされるように規則が改正され、戦後1953年までこの状態が続いた。」と書かれています。昭和16年の「規則改正」には「犠飛の取扱い」については触れられていませんので正式に規則が改訂されるのは昭和17年からの事かもしれませんがこの点については「要調査」の段階です。いずれにしても昭和16年から公式記録では犠牲フライは凡打と記録されていますが、当ブログでは「犠飛」として取扱いさせていただき、レコードも保存していきますのでご了承ください。




 

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