2013年1月31日木曜日

15年 第16節 週間MVP


 今節は名古屋が5勝0敗、ジャイアンツ が4勝0敗、阪急が3勝2敗、タイガースが3勝2敗、イーグルスが2勝2敗、セネタースが1勝2敗1分、金鯱が1勝4敗、南海が0勝4敗1分、ライオンが0勝3敗であった。


週間MVP

投手部門

 名古屋 西沢道夫 2

 今節3試合に登板して2勝0敗1セーブ1完封。19回を投げて11安打14四球7三振1失点で自責点ゼロ、防御率0.00であった。


 ジャイアンツ スタルヒン 5

 今節3試合に登板して3勝0敗1完封。20回3分の1を投げて8安打無四球14三振1失点で自責点1であった。スタルヒンは澤村程のコントロールのイメージがないのが一般的かもしれませんが、今節は与四球ゼロです。



打撃部門

 名古屋 大沢清 2

 今節17打数6安打2得点6打点3四球、二塁打1本。5連勝の名古屋を吉田猪佐喜と共に引っ張る。


 名古屋 吉田猪佐喜 2

 今節17打数5安打3得点6打点2四球、二塁打1本。5連勝の名古屋を大沢清と共に引っ張る。





殊勲賞

 阪急 黒田健吾 1

 8月7日のイーグルス戦で5打数3安打6打点をマークする。


 阪急 井野川利春 2

 8日のジャイアンツ戦で中尾輝三から満州リーグ初本塁打を放つ。因みに今節は15打数1安打でこの本塁打が唯一のヒットであった。


 タイガース 藤村隆男 1

 8日のライオン戦で1安打完封の快投を見せてプロ入り初勝利を飾る。




敢闘賞

 イーグルス 清家忠太郎 1

 7日の阪急戦で4打数4安打、二塁打1本、三塁打1本の準サイクルを記録する。戦後まで活躍して通算162安打を記録することとなる清家にとって、一試合4安打はこの日だけかもしれません。古くからの当ブログの読者の方でも覚えていらっしゃる方は少数ではないかと思われますが、昭和14年3月12日付け読売新聞に今季(昭和14年)の展望が載っていますが、森茂雄監督の清家評は「巨人の千葉のようになりますよ」と高く評価しています。グーグルで「清家忠太郎」を検索すると上位に2011年7月17日付けブログ「14年 セネタースvsイーグルス 1回戦」が出ますのでご確認ください。


 金鯱 濃人渉 1

 今節15打数7安打4得点3打点、二塁打2本、三塁打2本と、下位を低迷する金鯱で孤軍奮闘の活躍を見せる。





技能賞

 タイガース 森国五郎 1

 8日のライオン戦と11日の阪急戦で決勝スクイズを決めて今節勝利打点2個を記録する。森は満州リーグで3個の勝利打点を記録しており、現在満州リーグにおける勝利打点王となるラッキーボーイぶりを発揮している。


 阪急 石田光彦 1

 10日の南海戦で投打走に渡る活躍を見せる。


 名古屋 石田政良 1

 9日のタイガース戦では9回裏二死でライトから劇的な補殺を決め、10日の金鯱戦では決勝タイムリーを放つ活躍を見せる。











 

2013年1月30日水曜日

15年 ライオンvs名古屋 8回戦 満州リーグ


8月11日 (日) 新京 児玉公園球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 0 0 2 0 2 ライオン 16勝42敗3分 0.276 菊矢吉男 福士勇 井筒研一
3 0 4 0 0 2 0 0 X 9 名古屋  37勝24敗5分 0.607 岡本敏男
 
勝利投手 岡本敏男 1勝0敗
敗戦投手 菊矢吉男 7勝16敗

二塁打 (ラ)坪内 (名)石田、吉田、三浦、桝、岡本
三塁打 (名)大沢

勝利打点 大沢清 8


石田政良4安打、大沢清4打点、吉田猪佐喜3打点

 名古屋は初回、先頭の石田政良が左中間に二塁打、村瀬一三の中前打で無死一三塁、大沢清が右翼線に三塁打を放って2点を先制、ライオンベンチは早くも先発の菊矢吉男を下げて福士勇をリリーフに送る。吉田猪佐喜の左犠飛で3-0、桝嘉一は左飛、中村三郎も左飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 名古屋は3回、先頭の石田が中前打、村瀬の右前打で無死一三塁、大沢が中前にタイムリーを放って4-0、吉田の右中間二塁打で二者を迎え入れて6-0、二死後三浦敏一が左中間に二塁打を放って7-0とする。

 名古屋は6回、一死後岡本敏男が右中間に二塁打、トップに返り石田が左前にタイムリーを放って8-0、石田が二盗を決めて、村瀬の遊ゴロをファースト玉腰年男が落球して一死一三塁、村瀬が二盗を決めて一死二三塁、大沢の中犠飛で9-0とする。

 ライオンは8回、先頭の前田諭治が四球で出塁、トップに返り坪内道則がセーフティバントを決めて無死一二塁、村上重夫のバントが犠打となって一死二三塁、玉腰が中前にタイムリーを放って1-9、なお一死一三塁から鬼頭数雄の二ゴロの間に三走坪内が還って2-9とする。

 岡本敏男は4安打3四球3三振の完投でプロ入り初勝利を飾る。これが岡本にとって生涯唯一の勝利となる。

 石田政良は5打数4安打3得点、大沢清は4打数2安打4打点、吉田猪佐喜は3打数1安打3打点を記録する。







            *岡本敏男は4安打完投で生涯唯一の勝利を記録する。














      *9得点を記録した名古屋打線。





















 

2013年1月29日火曜日

偶然



 昨日、野球体育博物館維持会員に送付される季刊誌「ニュースレター」が届きました。今号の「殿堂入りの人々を語る(38)」には君島一郎氏のお孫さんである竹内宣之氏による寄稿文が掲載されています。


 君島一郎氏は「日本野球創世記」を著した功績が認められて2009年に野球殿堂入りした訳ですが、当ブログが君島一郎氏の一高時代の写真を発見したのが1月26日(土)のことで、人気ブログ「野球の記録で話したい」様が一高野球について書かれたのも偶然にも1月27日(日)のこと、そして君島一郎氏のお孫さんの寄稿文が我が家に届いたのが1月28日(月)のことです。偶然にしてはあまりにも出来過ぎているように考えられますがいかがでしょうか(笑)。


 1月27日付け当ブログ「発見」で「君島一郎氏は東大卒業後、日本銀行に就職し、朝鮮銀行副総裁で終戦を迎えたことから公職を追放されます。しかしこれが野球史研究にはプラスに作用したのではないでしょうか。仕事だけに汲々とすることなく、趣味の世界にも力を注ぐことができたことが「日本野球創世記」を著すという偉業につながったのではないでしょうか。」と書かせていただきました。上記の寄稿文で竹内宣之氏は「戦後は、公職追放となり、その間に調査したのが、野球の歴史(創始・一高時代)です。」と書かれています。


 当ブログの予想は偶然にも当たっていたようです。野球史研究には地道な努力が必要であり、当然時間を要します。偶然にも私は中学時代に君島一郎著「日本野球創世記」に接する機会に恵まれ、以降40年以上この道を継続しています。高校・大学時代は現役プレイヤーであり、社会人になってからは仕事の合間にやっているだけですから偉そうなことは言えませんが。


 全国には色々なやり方で野球史研究をされている方が数多くいらっしゃることをブログ活動を通じて知りました。それぞれアプローチの仕方が違うのは当り前ですが、目的は同じです。今後も努力を継続していくつもりであることも同じでしょう。






 

15年 セネタースvs名古屋 9回戦 満州リーグ


8月11日 (日) 新京 児玉公園球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 1 0 0 0 0 0 0 0 1 セネタース 36勝19敗8分 0.655 野口二郎 三富恒雄 村松長太郎
2 1 0 0 0 0 0 2 X 5 名古屋      36勝24敗5分 0.600 西沢道夫
 
勝利投手 西沢道夫 12勝5敗
敗戦投手 野口二郎 23勝7敗

二塁打 (セ)苅田 (名)西沢、大沢

勝利打点 吉田猪佐喜 8


吉田猪佐喜、先制の決勝タイムリー

 セネタースは初回、先頭の苅田久徳が左中間に二塁打、横沢七郎が四球を選んで無死一二塁、野口二郎が送りバントを決めて一死二三塁、続く小林茂太の打席で三走苅田は「1-4-2-5」でタッチアウト。これはセネタースお得意のトリックプレーが失敗したものでしょう。すなわち、二走横沢が飛び出してピッチャー西沢道夫が二塁に牽制する隙に三走苅田がホームを突くがセカンドのベテラン中村三郎が冷静にキャッチャー三浦敏一に送球して苅田を三本間に挟みサード芳賀直一が苅田にタッチしたものでしょう。苅田としては新京のファンに得意のプレーを披露したかったのでしょうが。小林は左飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 名古屋は1回裏、先頭の石田政良が左前打で出塁、石田が二盗を決めて村瀬一三が四球を選んでこちらも無死一二塁、しかしここからが違った。大沢清の一ゴロの間に二者進塁して一死二三塁、吉田猪佐喜が左前に先制の2点タイムリーを放って2-0とする。これが決勝打となった。

 セネタースは2回、一死後山崎文一が右前打、柳鶴震の三ゴロでランナーが入れ替わり、佐藤武夫の三ゴロをサード芳賀直一がエラー、織辺由三が左翼線にタイムリーを放って1-2とする。
 セネタースは2回裏、一死後芳賀が左前打で出塁、西沢道夫が左越えにタイムリー二塁打を放って3-1とする。


 セネタースは3回から不調の野口二郎に代えて三富恒雄をマウンドに送るがこれが成功して三富は3回から6回の4イニングを1安打2四球1三振で無失点に抑える。

 セネタースは7回の攻撃で三富に代打を送った関係で8回から三番手として村松長太郎がマウンドに上がる。これで流れが再び変わってしまった。

 名古屋は8回、先頭の吉田の遊ゴロをショート柳がエラー、桝嘉一の投前送りバントを村松が一塁に悪送球、犠打エラーとなって無死一二塁、中村が左翼線にタイムリーを放って4-1、三浦の送りバントは二走桝が三封されて一死一二塁、服部受弘が左前にタイムリーを放って5-1として試合を決める。

 西沢道夫は6安打6四球4三振の完投で12勝目をあげる。肩を痛めている野口二郎は満州リーグに専属トレーナーとして小守トレーナーを同行させているが肩の調子は相当悪そうだ。
 名古屋は7安打で5得点をあげるがセネタースは6安打で1得点、試合巧者セネタースとしては珍しい負け方であった。










*西沢道夫は6安打完投で12勝目をあげる。













     *吉田猪佐喜が先制の決勝タイムリーを放って快勝した名古屋打線。











 

15年 イーグルスvsジャイアンツ 9回戦 満州リーグ


8月11日 (日) 鞍山 昭和製鋼球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 イーグルス   31勝30敗4分 0.508 中河美芳 亀田忠
0 0 0 0 3 0 2 0 X 5 ジャイアンツ 45勝20敗 0.692 中尾輝三

勝利投手 中尾輝三 16勝6敗
敗戦投手 中河美芳   5勝10敗

二塁打 (イ)清家 (ジ)水原

勝利打点 永澤富士雄 1


亀田忠、炎の連投も虚し

 ダブルヘッダーの第二試合となるイーグルスは予想通り中河美芳が先発、ジャイアンツは中尾輝三で応戦してサウスポー対決となった。

 3回までは両軍1安打ずつで無得点。

 イーグルスは4回、先頭の杉田屋守が中前打で出塁、中河が左前打を放って杉田屋は三塁に進む。打者走者の中河も二塁に走るが「7-6-4」と送球されてタッチアウト、谷義夫が四球を選び二盗に成功して一死二三塁、菅利雄のピッチャーを強襲する当りは中尾が弾いてバックアップンショート白石敏男が一塁に送球してアウト、この間に三走杉田屋が還って1点を先制、記録は「1-6-3」で投触遊ゴロとなる。

 ジャイアンツは5回、先頭の中島治康が四球で出塁、白石敏男が右前打を放って無死一二塁、平山菊二の三前送りバントをファースト菅利雄が落球、犠打エラーが記録されて無死満塁、吉原正喜が左前に同点タイムリーを放って1-1、鈴木田登満留に代わる代打永澤富士雄が中犠飛を打ち上げて2-1と逆転、平山・吉原がダブルスチールを決め、中尾が死球を受けて一死満塁、トップに返り呉波の中犠飛で3-1とする。水原茂が四球を選んで二死満塁、川上哲治は左飛に倒れてスリーアウトチェンジ。

 逆転されたイーグルスは試合を捨てておらず、6回から先発の中河をファーストに回して第一試合で完投勝利を飾った亀田忠を連投で注ぎ込む。

 ジャイアンツは7回、先頭の吉原の三ゴロをサード竹内功がエラー、林清一の遊ゴロの間に吉原は二進、中尾が四球を選んで一死一二塁、トップに返り呉の投ゴロで中尾が二封されて二死一三塁、水原が右中間に二塁打を放ち二者を迎え入れて5-1とリードを広げる。さすがの亀田も満州入りして約2週間で約2,700キロを移動してのダブルヘッダー連投はきつかったようだ。


 中尾輝三は4安打6四球4三振の完投で16勝目をあげる。代打で決勝犠飛を放った永澤富士雄に勝利打点が記録される。川上の台頭によりめっきり出番が減った永澤であるが久々の活躍を見せた。








                 *中尾輝三は4安打完投で16勝目をあげる。















     *代打永澤富士雄の決勝犠飛で快勝したジャイアンツ打線。














 

2013年1月27日日曜日

15年 イーグルスvs南海 9回戦 満州リーグ


8月11日 (日) 鞍山 昭和製鋼球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 0 0 0 0 0 0 0 0 2 イーグルス 31勝29敗4分 0.517 亀田忠
0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 南海           17勝44敗4分 0.279 政野岩夫

勝利投手 亀田忠  17勝13敗
敗戦投手 政野岩夫 6勝12敗

二塁打 (イ)中河、岡田 (南)清水、岡村

勝利打点 中河美芳 2


中河美芳、決勝二塁打

 4日の試合が雨のため順延となり、本日が鞍山での初試合となる。舞台となる昭和製鋼球場は満州日日新聞によると「改築以前の神宮球場をぐっと小さくしたような」球場とのことです。昭和製鋼所は元々鞍山製鉄所であったが1932年に満州国が成立すると33年に鞍山製鉄所から昭和製鋼所となった。野球は大連、奉天同様盛んで昭和13年の第12回都市対抗には「鞍山市代表 昭和製鋼」として出場している。昭和製鋼所は終戦と同時に解体されるので「昭和製鋼」が都市対抗に出場したのはこの時が唯一のこととなる。


 イーグルスは初回、先頭の岡田福吉が四球で出塁、岩垣二郎は二遊間に内野安打、初めて三番に起用された玉腰忠義が送りバントを決めて一死二三塁、ここで中河美芳が左中間に二塁打を放って2点を先制する。

 イーグルスは2回、先頭の木下政文が死球を受けて出塁、二死後岡田が左中間を破るが二塁をオーバーランして「8-6-4」と渡ってタッチアウト、二塁打は記録されたがスリーアウトチェンジ。

 イーグルスは3回、先頭の岩垣が四球で出塁、しかし玉腰は三振、中河の三直に岩垣が飛び出してダブルプレー。イーグルスは追加得点のチャンスを自ら潰して9回まで無得点であった。

 南海は3回、一死後藤戸逸郎が四球で出塁するが政野岩夫の二ゴロは「4-6-3」と渡ってゲッツー。4回も先頭の国久松一が中前打、一死後岡村俊昭が四球を選んで一死一二塁とするが吉川義次の遊ゴロは「6-4-3」と渡って又もゲッツー。6回も藤戸と国久のヒットで一死一二塁とするが無得点が続く。

 南海は7回、一死後清水秀雄が右中間に二塁打、木村勉の遊ゴロをショート山田潔が一塁に悪送球して一死一三塁、上田良夫に代わる代打岩本義行の中犠飛で1-2とする。

 南海は8回、一死後国久がこの日3本目のヒットを中前に運び、岩出清の一ゴロでランナーが入れ替って二死一塁、岡村の右中間二塁打で一走岩出は三塁ベースを蹴って同点のホームを狙うがライト玉腰から「9-4-2」と中継されてタッチアウト。

 南海は最終回、先頭の吉川が左翼線にヒット、しかし清水の一ゴロでランナーが入れ替わり、前田貞行は三振、最後は岩本も三振を喫してゲームセットを告げるサイレンが初めて鞍山の空に鳴り響く。

 亀田忠は7安打2四球4三振の完投で17勝目をあげる。政野岩夫も9回を完投して5安打2四球1死球1三振2失点の好投を見せたが中河の一打に泣いた。



 本日の舞台となった昭和製鋼球場を本拠地とする昭和製鋼は昭和13年の第12回都市対抗に出場しているが、その時のエースが滝川中学出身の湯浅芳彰である。湯浅芳彰は戦後パシフィックに入団して昭和21年7月26日の大阪タイガース戦で渡邊誠太郎と投げ合って55分の最短試合記録を作り、本日の大連で行われた阪急vsタイガース戦の56分の記録を更新することとなる。

 すなわち、昭和15年8月11日に大連で56分の最短記録が作られ、同日に鞍山 昭和製鋼球場で満州リーグ初試合が行われ、昭和13年に歴史上唯一都市対抗に出場した昭和製鋼のエースが湯浅芳彰であり、その湯浅が昭和21年7月26日に55分の記録を作って本日作られた最短記録を更新することとなるのである。一つ一つの事実関係は調べれば分かることですが、それがこのようなつながりを持っていることを解明できるツールは当ブログだけでしょう。

 なお、「都市対抗野球大会60年史」(1990年1月 日本野球連盟 毎日新聞社発行)によると昭和13年の都市対抗1回戦で昭和製鋼は大津晴嵐会を6対1で降し、湯浅は七番ピッチャーで出場して大津晴嵐会を5安打3四球3三振1失点に抑えて完投勝利を飾り、2打数無安打の記録を残しています。準々決勝の全京城戦も先発しますが打ち込まれて10対5で敗れています。一旦セカンドに下がり、再度登板(恐らく二番手として登板した手島も打ち込まれたからでしょう)しています。この試合は八番で3打数無安打が記録されています。全京城はこの大会で準優勝する強豪でした。









                 *亀田忠は7安打完投で17勝目をあげる。












     *鞍山 昭和製鋼球場での初試合を伝えるスコアカード。













 

発見 その2



 昨日神保町で見つけた写真はもう一枚あります。こちらは明治39年に早稲田大学から押川清と山脇正治が宇都宮中学のコーチとして招かれた時の集合写真です。


 押川清は1959年の第一回野球殿堂入りのメンバーの一人であり、(財)野球体育博物館編「野球殿堂」に記載されている紹介文によると「1906年(明治39年)早慶戦中断時の早大主将」なのでこちらも時代考証はどんぴしゃです。押川清の後年の写真は良く見かけますので確認してみてください。


 山脇正治は殿堂入りしていないので一般的ではないかもしれません。写真を見る機会もあまりないと思われます。昭和14年6月14日付け読売新聞に「イーグルスでは今回チーム取締役の山脇正治氏を総監督とし森監督と共にベンチを強化する事となった。」という記事が写真入りで報道されています。当ブログでは新聞記事及び書籍の写真を掲載することは特別の事情が無い限り行っておりませんが、本日はその“特別の事情”に該当すると判断して読売新聞の山脇正治氏の写真を掲載させていただきます。


 押川清は盟友の河野安通志、橋戸頑鉄と共に日本最初のプロ野球チームである日本運動協会を設立し、昭和11年以降のプロ野球でも河野安通志と共にイーグルスを設立して球団社長に就任しています。イーグルスは創設時の森茂雄監督、後任の沢東洋男監督、杉田屋守主将など、首脳陣の河野、押川、山脇と共に早稲田閥で形成されていることは何度かご紹介しているとおりです。なお、橋戸頑鉄は昭和11年に亡くなっていますので12年のイーグルス創設には加わることはできませんでした。生きていれば当然行動を共にしていたでしょう。但し都市対抗に「橋戸賞」の名を残して今日に至っています。




*明治39年7月に早稲田大学の押川清、山脇正治がコーチとして宇都宮中学を訪れた際の集合写真。





*髭の二人は左から宇都宮中学の鈴木先生と香川部長、その右で腕を組んでいるのが押川清、更にその右が山脇正治です。
 なお、明治41年の写真の裏書では香川部長は校長に、鈴木先生は野球部長にそれぞれ昇格されているようです。
 生徒のユニフォームも明治39年は「UMS」、明治41年は「UTSUNOMIYA」に変わっています。「UMS」は「UTSUNOMIYA MIDDLE SCHOOL」の略でしょうか。





*このパネルには刻印があります。「UTSUNOMIYA」の文字が確認できます。宇都宮の写真館が撮影したものでしょう。





*昭和14年6月14日付け読売新聞に掲載された山脇正治の写真です。この時54歳頃になりますので明治39年に宇都宮中学を訪れたのは21歳頃のこととなります。







               *パネルの裏の全文です。







                  *日付けは明治39年7月21日と特定できます。






*「C.F.  Capt 押川氏」は「センター、キャプテン押川清」のことです。「C 山脇氏」は「キャッチャー山脇正治」のことです。















 

2013年1月26日土曜日

発見



 本日神保町の古本屋で貴重な資料を見つけました。満州リーグの資料を探しに行ったところ、店主が棚の奥から出してきてくれたのですが、もう一つ集合写真を持っていました。「それは何ですか?」「宇都宮の野球の写真ですよ」。会話はそれだけでしたが宇都宮ならもしかしたら宇都宮中学の写真ではないか、であれば青井鉞男か君島一郎が写っているかもしれないと考えて「ちょっと見せてもらっていいですか」ということで見せてもらいました。


 予想は大当たり、写真が貼り付けられたパネルの裏に「君島氏」と書かれているではないですか。写真の顔も「日本野球創世記」に掲載されている君島一郎の写真と同じです。「明治41年7月撮影」と書かれていますのでお次は時代考証です。同店にあった「日本野球創世記」をお借りして君島一郎氏のプロフィールを確認すると「1887年4月生まれ。1905年9月、第一高等学校入学。1912年7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒業」とあります。明治41年は1908年なので君島一郎氏が21歳の時になります。写真を見ると宇都宮中学の生徒はユニフォームを来ていますが君島一郎はユニフォーム姿ではありません。裏には選手名は呼び捨てになっていますが君島一郎は「君島氏」と書かれています。


 すなわち、宇都宮中学卒業後、旧制一高時代に母校にOBとしてコーチに出掛けた時の集合写真に間違いありません。プロフィールからも分かるとおり当時は9月入学、7月卒業です。1905(明治38)年9月に宇都宮中学から旧制一高に入学した君島一郎は、一高野球部で活躍して1908(明治41)年7月に卒業し、同年9月に東京帝国大学に進む前に帰省して母校のコーチに出掛けたものと考えられます。


 君島一郎氏は「日本野球創世記」を著した功績が認められて2009年に特別表彰で野球殿堂入りされています。私が日米野球史研究の道に迷い込んだきっかけが中学時代に購入した「日本野球創世記」と出会ったことにあるのは何度もお伝えしているところです。その著者の一高時代の写真を入手できるとは、これがあるから神保町古本屋巡りはやめられません。そもそも当ブログで解読している一リーグ時代のスコアブックも神保町の古本屋の棚に置いてあったものを偶然見つけたからです。“キッチン南海”のカツカレーを食べに行くのも目的ではありますが(笑)。



 最後に「日本野球創世記」の“あとがき”をご紹介します。「・・・明治40年、41年の一高野球生活を振り返ってみて、よくもあんなにムキになれたものだとも思い、われながらよくやったとも思う。面白かったの楽しかったのなどということは全くなく、ただ苦しかったの連続であった。しかし今にして思う。からだの面でも心の面でもプラスになったと感ずることは多々あるが、マイナスになったと思うものは皆無である。・・・」


 君島一郎氏は東大卒業後、日本銀行に就職し、朝鮮銀行副総裁で終戦を迎えたことから公職を追放されます。しかしこれが野球史研究にはプラスに作用したのではないでしょうか。仕事だけに汲々とすることなく、趣味の世界にも力を注ぐことができたことが「日本野球創世記」を著すという偉業につながったのではないでしょうか。


 世間では体罰がどうのこうのと騒いでいますが、スポーツとは楽しい事ばかりではなく試練の連続です。野球の神髄とは、プロ野球でもなく数字の羅列でもなく、学生野球にこそあります。筆者も神奈川軟式、東京六大学準硬式とは言え7年間を体育会で過ごしてきました。矢張り今にして思うと「からだの面でも心の面でもプラスになったと感ずることは多々あるが、マイナスになったと思うものは皆無」であります。スポーツに打ち込めるのは学生時代の特権でもあります。現役諸君には貴重な時間を無駄にすることなく励んでもらいたいと思います。








     *本日神保町の古本屋で“発見”した宇都宮中学野球部の集合写真。











     *前列左のユニフォーム姿ではない帽子を被った方が君島一郎氏です。













*「日本野球創世記」を持っていらっしゃる方は同著に掲載されている写真と比べてみてください。本人であることが確認できると思います。









*選手は呼び捨てになっていますが「君島氏」となっていますのでOBとしてコーチに出掛けた時のものであると考えられます。












       *明治41年7月撮影と書かれていますので年代もどんぴしゃとなります。













 

阪急vsタイガース 8回戦 満州リーグ


8月11日 (日) 大連 満倶球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 阪急      35勝24敗4分 0.593 森弘太郎
0 0 0 0 1 0 0 0 X  1 タイガース 37勝25敗3分 0.597 若林忠志

勝利投手 若林忠志 13勝10敗
敗戦投手 森弘太郎 20勝8敗

三塁打 (タ)若林

勝利打点 森国五郎 3


最短試合

 阪急は第二試合に森弘太郎が先発、タイガースは若林忠志の先発で応戦する。午後4時55分、二出川延明主審の右手が上がりプレイボール。

 阪急は初回、一死後フランク山田伝が左前打を放って出塁、しかし黒田健吾の三ゴロは「5-4-3」と渡ってダブルプレー。

 タイガースは1回裏、先頭のジミー堀尾文人が中前打で出塁、皆川定之の二ゴロをセカンド伊東甚吉がエラーして無死一三塁、皆川が二盗を決めて無死二三塁、しかし松木謙治郎は三振、本堂保次の三ゴロで三走堀尾はホームを突くがサード黒田からのバックホームにタッチアウト、ここは黒田の蟻地獄にはまった。続くカイザー田中義雄も二ゴロに倒れてスリーアウトチェンジ。

 この後は森、若林両投手が好投を続けて5回表まで両軍無得点が続く。

 タイガースは5回裏、一死後若林が中越えに三塁打、続く森国五郎がスクイズを決めて1点を先制する。これが決勝点となって森は満州リーグで3つ目の勝利打点をあげる。森は8日のライオン戦に続いてのスクイズによる決勝点を記録した。


 若林忠志は80球を投げて2安打無四球4三振の完封で13勝目をあげる。森弘太郎は8回を77球で完投して3安打無四球1三振1失点であった。試合終了は午後5時51分で試合時間は56分の最短記録を更新した。松木謙治郎著「タイガースの生いたち」によると「試合途中、捕手井野川のレガースが故障し、これを取り替えるため3、4分かかった。これがなければ52、3分の驚異的記録を作ったかもしれない。」とのこと。因みに従来の記録は昭和12年秋季、西宮球場で行われた8月29日のイーグルスvs名古屋戦で記録された57分であった。この試合はイーグルス・藤野文三郎、名古屋・森井茂の先発で午前10時開始、10時57分終了であった。


 この日の記録は昭和21年7月26日に西宮球場で行われたパシフィックvsタイガース戦で更新されることとなる。この試合はパシフィックが湯浅芳彰、タイガースが渡邊誠太郎の先発で午後1時15分に開始、2時10分に終了して55分の新記録が樹立されることとなる。











             *若林忠志は80球、森弘太郎は77球の投球であった。















                    *最短記録を伝えるスコアカードの記載。









 

サイクルヒット



 広島球団史上初のサイクルヒットを記録することとなる山川喜作のプロ入り初安打をお伝えしたところですが、甲子園史に残るサイクルヒットと言えば昭和50年夏の甲子園2回戦、土佐高校(高知県)vs桂高校(京都府)で土佐の三番・玉川寿がやったサイクルヒットでしょう。2年生の玉川は3回の第二打席で右中間ラッキーゾーンにホームラン。5回はセンター右奥に三塁打、7回はセンター左に二塁打、8回にも一塁強襲ヒットを放ってサイクルヒットを達成しました。アサヒグラフに残されている談話は「・・・夢みたいです。・・・これで自信?とてもそんなもの、もてません。」とのことでした。


 ところが玉川は慶應義塾大学に進み1年春には江川から初ヒット、1年秋には早くもベストナイン、4年間で3度のベストナインを獲得し、日石時代も都市対抗で活躍することとなります。筆者は玉川と同学年ですが、準硬式野球部時代、日吉台球場で練習していると玉川の女性ファンが間違えてやってきました。「玉川君はいますか?」と聞くので「硬式のグラウンドは日吉駅の反対側ですよ」と教えてあげたらさっさと行ってしまいました(当り前ですが(笑))。


 昨日、今年のセンバツ出場校が発表されました。21世紀枠で土佐高校が20年ぶり7回目の出場となります。伝統の“全力疾走”が甲子園に帰ってきました。古葉竹識監督の母校である済々黌高校は55年ぶり4回目の出場、春3回、夏1回の優勝を誇る県岐阜商は18年ぶり27回目の出場と、“古豪復活”がテーマとなります。

15年 阪急vs金鯱 8回戦 満州リーグ


8月11日 (日) 大連 満倶球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 1 3 0 0 1 6 阪急 35勝23敗4分 0.603 浅野勝三郎
0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 金鯱 16勝42敗7分 0.276 内藤幸三 長尾貞利

勝利投手 浅野勝三郎 4勝4敗
敗戦投手 内藤幸三     2勝7敗

二塁打 (阪)浅野
三塁打 (金)室脇

勝利打点 フランク山田伝 5


浅野勝三郎、7安打完投で4勝目

 8月10日は新京 児玉公園球場で予定されていたライオンvsイーグルス戦、ライオンvsセネタース戦が雨のため中止、大連と奉天は曇り空、大連の第二試合は6回から雨の中行われた。11日は大連、鞍山、新京で各2試合ずつ、満州リーグで初めて一日合計6試合が行われる。

 阪急はここまで今季通算34勝23敗4分5割9分6厘で三位であるが名古屋が35勝24敗5分5割9分3厘で四位、タイガースが36勝25敗3分5割9分で五位とゲーム差無しの6厘差の中に三チームがひしめき合っている。因みに「ひしめき合っていななくは~♪」は「走れコウタロー」の一節となります。


 阪急は初回、先頭の西村正夫が左前打から二盗に成功、二死後井野川利春の三ゴロをサード山川喜作が一塁に悪送球する間に西村が還って1点を先制する。

 金鯱は3回、先頭の柴田多摩男が中前打、内藤幸三の三前送りバントをサード黒田健吾が二塁に送球するがセーフ、犠打野選となって無死一二塁、トップに返り五味芳夫が三前に送りバントを決めて一死二三塁、佐々木常助は二飛に倒れるが濃人渉が中前にタイムリーを放って1-1の同点に追い付く。

 阪急は5回、先頭の田中幸男が四球で出塁、浅野勝三郎が送って一死二塁、パスボールで田中は三進、西村が四球から二盗を決めて一死二三塁、フランク山田伝の右犠飛で2-1と勝ち越す。

 阪急は6回、先頭の井野川が四球で出塁、山下好一の投ゴロでランナーが入れ替わり、上田藤夫の右前打で一死一二塁、新富卯三郎の投ゴロで井野川が三封されて二死一二塁、田中の中前タイムリーで3-1、一走上田は三塁に進み打者走者の田中もバックホームの隙を衝いて二塁に進んで二死二三塁、浅野が右中間に二塁打を放ち5-1として試合を決める。

 阪急は9回、先頭の西村のバントをピッチャー長尾貞利が一塁に悪送球、山田の右前打で一死一三塁、黒田の左犠飛で6-1としてダメを押す。

 浅野勝三郎は7安打3四球1三振の完投で4勝目をあげる。打っても2打数1安打2打点1犠打1四球、二塁打1本の活躍であった。

 昨日デビューを飾った金鯱のサード山川喜作は2試合連続スタメンに起用されて2試合連続タイムリーエラーを犯したが、本日は9回の第四打席で左前にプロ入り初安打を放った。戦後は巨人で水原茂と宇野光雄の間をつなぐ三塁手という位置付けとなり野球史的にも貴重な存在です。水原はシベリアに抑留されて帰還が遅れ、戦後の復活初年度から巨人のレギュラー三塁手は山川となります。47年に宇野が入団してレギュラーの座を奪われかけますが宇野が肩を痛めて離脱したためレギュラーの座をしぶとく守ります。宇野の肩が治って巨人に復帰すると追われるように広島に移籍しますが広島では球団史上初のサイクル安打を記録するなどの活躍を続けます。通算844安打を記録することとなる山川の初ヒットは満州の地で記録されました。










                 *浅野勝三郎は7安打完投で4勝目をあげる。












     *山川喜作がプロ入り初ヒットを放った瞬間を伝えるスコアカード。









 

タイガースvs金鯱 9回戦 満州リーグ


8月10日 (土) 奉天 満鉄球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10  計
0 0 0 1 0 0 2 0 0  0   3 タイガース 36勝25敗3分 0.590  木下勇 三輪八郎
0 0 2 0 0 0 0 1 0 1X  4 金鯱         16勝41敗7分 0.281  古谷倉之助 中山正嘉

勝利投手 中山正嘉 9勝20敗
敗戦投手 木下勇  10勝9敗

勝利打点 なし


愚戦乱戦

 翌日の満州日日新聞の見出しは「愚戦乱戦に終始」である。

 金鯱は3回、一死後五味芳夫が四球で出塁、佐々木常助の三ゴロの間に五味は二進、濃人渉の遊ゴロをショート皆川定之が一塁に悪送球して二死一三塁、濃人が二盗を決めて二死二三塁、黒澤俊夫が左前に2点タイムリーを放って1-0とする。

 タイガースは4回、先頭のカイザー田中義雄が中前打で出塁、松木謙治郎が右前打を放って無死一二塁、宮崎剛の投ゴロで田中は三封、山根実二代わる代打森国五郎は三振に倒れて二死一二塁、木下勇が左前にタイムリーを放って「1-2」とする。

 タイガースは7回、一死後皆川が中前打、本堂保次の遊ゴロでランナーが入れ替わり、本堂が二盗を決めて二死二塁、伊賀上良平が四球を選んで二死一二塁、ここで重盗を成功させて二死二三塁、田中の三ゴロをサード山川喜作がエラーする間に二者還って3-2と逆転に成功する。

 金鯱は8回、先頭の濃人の左飛をレフト中田金一が落球する間に濃人は二塁に進み、黒澤俊夫の二ゴロの間に三進、森田実は二飛に倒れるが室脇正信脇がセンター左にタイムリーを放って3-3と同点に追い付く。

 金鯱は9回から先発の古谷倉之助に代えて第一試合と連投となる中山正嘉をマウンドに送る。中山はタイガース打線を9回、10回と三者凡退に抑える。

 金鯱は10回裏、先頭の佐々木がピッチャー強襲ヒット、濃人の投前送りバントをピッチャー木下勇がエラーして無死一二塁、タイガースべんちはここで先発の木下から三輪八郎にスイッチ、黒澤の三ゴロは「5-4-3」と転送されるがセカンド宮崎からの一塁送球が悪送球となる間に二走佐々木がホームを駆け抜けて金鯱がサヨナラ勝利を飾る。


 得点経過からは接戦であるが得点の大半がエラー絡みで敗戦投手の木下勇は9回3分の0を投げて7安打1四球3三振4失点で自責点ゼロ、金鯱先発の古谷倉之助は8イニングを投げて9安打4四球4三振3失点で自責点は1であった。翌日の満州日日新聞は「愚戦乱戦の域を出ない物足りなさを強く感じる」と伝えている。タイガースは7失策、金鯱は4失策を記録した。


 中山正嘉は第一試合の完投に続いて第二試合も連投で登板して2イニングを無安打無四球1三振無失点のパーフェクトリリーフを見せて9勝目をマークする。既に昨年の21敗に続く2年連続20敗は達成しているが昨年の25勝に続く2年連続二桁勝利にあと1勝となった。






              *両チーム合計で得点7のうち自責点は1点であった。






























 

2013年1月24日木曜日

名古屋vs金鯱 9回戦 満州リーグ


8月10日 (土) 奉天 満鉄球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 2 0 0 1 0 1 0 0 4 名古屋 35勝24敗5分 0.593 松尾幸造 村松幸雄
0 0 0 2 0 0 1 0 0 3 金鯱     15勝41敗7分 0.268 中山正嘉

勝利投手 村松幸雄 14勝8敗
敗戦投手 中山正嘉   8勝20敗

二塁打 (名)村瀬

勝利打点 石田政良 1

石田政良決勝タイムリー

 金鯱は名古屋とタイガースとのダブルヘッダー。第一試合の名古屋戦は中山正嘉が先発する。
 名古屋は2回、先頭の吉田猪佐喜が中前打、桝嘉一が四球を選んで無死一二塁、三浦敏一が三前に送りバントを決めて一死二三塁、中村三郎の左前タイムリーで1点を先制、なお一死一三塁から芳賀直一の遊ゴロの間に三走桝が還って2-0とする。


 金鯱は4回、森田実、室脇正信が連続四球、キャッチャー三浦の捕逸の間に二走森田が一挙生還して1-2、名古屋ベンチはここまで5四球1死球とコントロールの定まらない先発の松尾幸造に代えて村松幸雄をマウンドに送る。松元三彦も四球を選んで無死満塁、中山の左犠飛で2-2の同点に追い付く。

 名古屋は5回、先頭の芳賀が右前打で出塁、村松の投ゴロの間に芳賀は二進、トップに返り石田政良が右翼線にタイムリーを放って3-2と勝ち越す。

 名古屋は7回、先頭の村松が右前打、トップに返り石田は一飛に終わるが村瀬一三の投ゴロでランナーが入れ替わり、大沢清が四球、二死一二塁から吉田が左翼線にタイムリーを放って4-2とする

 金鯱は7回裏、一死後佐々木常助が四球で出塁、濃人渉が右前打で続き、黒澤俊夫の二ゴロをセカンド木村進一がエラーして一死満塁、森田が中前にタイムリーを放って3-4と追い上げる。


 金鯱は最終回、一死後濃人の遊ゴロをショート村瀬がエラー、黒澤の中前打、森田の左前打で一死満塁、しかし古谷倉之助は二飛、松元は三振に倒れてゲームセットを告げるサイレンが満州の空に高々と鳴り響く。

















 

西鉄、海乃山、ハンバーグ



 元横綱三重ノ海の武蔵川親方が65歳で定年退職しました。


 相撲ネタは当ブログ史上初めてのこととなります。筆者が通っていた千葉県市川市立真間小学校の近くに当時の横綱佐田の山が住んでいました。小学校4年生頃のことと思いますが、佐田の山が出羽の海部屋の力士を引き連れて真間小学校にやってくることとなりました。校庭の隅に土俵が造られ、選抜メンバーが出羽の海部屋の力士と相撲をとることとなったのです。私の小学校時代の一大事件でした。私はメンバーには選ばれませんでしたが、当然の如く出羽の海部屋のファンとなった訳です。佐田の山の引退相撲には真間小学校の生徒が招待されて初めて蔵前国技館に行きました。


 当時は幕内上位に福の花、幕内中位に海乃山がいました。ということで私が初めてファンになった力士が海乃山です。鋭い蹴手繰り(けたぐり)が特徴でした。蹴手繰りで大鵬を破ったことがあります。この頃私が目を付けていたのがまだ幕下だった三重ノ海です。


 「三重県松坂市出身、出羽の海部屋」土俵に登場する時の紹介アナウンスは何度聞いたか分からない程です。私の中学(1971年~73年)、高校(74年~76年)時代に頭角を現してきました。伝説の黒姫山との流血相撲は71年のことでした。“大関キラー”と呼ばれた関脇時代が勢いもあって一番強かったと思います。身体が小さく、肝炎のため休みがちでしたがまさかの大関昇進を果たし、びっくり仰天の横綱にもなっちゃいました。更に驚くことに理事長にもなってしまったのです。本人の粘り強い性格としか言いようがないと思います。三重ノ海ファン歴45年の私が言うのですから間違いないでしょう。理事長時代には色々とご苦労がありましたが、私だけは応援していたことを付言しておきます。


 世の中「巨人、大鵬、玉子焼き」と言われていた頃、私は「西鉄、海乃山、ハンバーグ」でした。どうも巨人は好きになれず、黒い霧事件でみんなが西鉄を苛めるので「じゃー俺がファンになってやろうじゃねーか」ということで西鉄ファンを始めたのが小学校6年の時です。大鵬は晩年しか知りませんので海乃山のファンになりました。玉子焼きが美味しいと思ったことは一度もなく、私の好物はハンバーグでした。小学校時代の通信簿の性格欄にはいつも「ひねくれ者、理屈っぽい」と書かれていました。40年以上経ってもこの性格は一向に治りませんね(笑)。







 

2013年1月23日水曜日

15年 南海vsジャイアンツ 8回戦 満州リーグ


8月10日 (土) 大連 満倶球場
 
1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0  南海            17勝43敗4分 0.283 劉瀬章
0 0 2 0 0 0 1 0 X  3 ジャイアンツ 44勝20敗        0.688 スタルヒン
 
勝利投手 スタルヒン 22勝11敗
敗戦投手 劉瀬章        2勝7敗
 
二塁打 (ジ)川上
三塁打 (南)清水
 
勝利打点 川上哲治 12
 
 
川上哲治、12個目の勝利打点
 
 昨日から政野岩夫、清水秀雄を使い果たした南海はダブルヘッダーの第二試合に劉瀬章が先発、一方ジャイアンツはスタルヒンが先発する。勝負の行方は目に見えるようであるが如何に。

 ジャイアンツは3回、先頭のスタルヒンが四球で出塁、トップに返り呉波の投ゴロは「1-6-3」と転送されるがショート上田良夫からの一塁送球が悪送球となる間に呉は二塁に進み一死二塁、水原茂の右前打で一死一三塁、川上哲治がセンター右に先制タイムリーを放って1-0、中島治康は左飛に倒れるが白石敏男が四球を選んで二死満塁、平山菊二の三ゴロをファースト清水が落球する間に三走水原が還って2-0とする。

 ジャイアンツは7回、先頭の川上が四球で出塁、中島が右前打、白石が四球を選んで無死満塁、平山菊二が押出し四球を選んで3-0とする。しかし吉原正喜は二飛、林清一は右飛、スタルヒンは二ゴロに倒れて追加得点はならず。

 スタルヒンは南海打線を清水の三塁打と国久松一の2安打のみに抑えて3安打無四球4三振で今季9度目の完封、22勝目をあげる。


 翌日の読売新聞によると劉瀬章は「投球にコントロールあり下手投げの低目を衝くインシュートとカーブに巨人を苦しめた。」とのこと。但し劉は8回を完投して7安打8四球無三振であった。


 川上哲治が4打数3安打を記録して夏季通算120打数42安打3割5分となり、ここ2試合無安打の鬼頭数雄を抑えて夏季シリーズ首位打者となる。今季通算では鬼頭が231打数79安打3割4分2厘で首位打者の座をキープ、川上は237打数78安打3割2分9厘で追っている。川上は本日の勝利打点が今季12個目で断トツトップに立っている。勝利打点は勝負強さの指標にはなりませんが鬼頭は3個です。ジャイアンツは勝ち数が多いので川上に勝利打点が記録される確率は高くなりますが、本日の先制タイムリーのような価値の高いヒットを多く打っているのは事実です。









               *スタルヒンは3安打完封で22勝目をあげる。













     *川上哲治が3安打を記録したジャイアンツ打線。









 

15年 南海vs阪急 8回戦 満州リーグ


8月10日 (土) 大連 満倶球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 1 0 0 0 0 1 南海 17勝42敗4分 0.288 清水秀雄
0 0 0 0 2 0 1 0 X 3 阪急 34勝23敗4分 0.596 石田光彦

勝利投手 石田光彦 7勝8敗
敗戦投手 清水秀雄 7勝14敗

二塁打 (南)上田良、吉川

勝利打点 なし


石田光彦、投打走に活躍

 昨日奉天でセネタースと延長11回引き分けた南海は三等寝台の夜行列車で今朝大連入りして本日は阪急、ジャイアンツとのダブルヘッダーとなる。現代のひ弱な選手会だと「疲れるからいやだ~」と駄々をこねて「ストライキだ~」と騒いでいるところでしょう。

 南海先発の清水秀雄は制球を整えて4回まで1四球のみ、2安打を許すが初回はフランク山田伝の二盗をキャッチャー吉川義次が刺し、4回無死一塁は井野川利春を遊ゴロ併殺に打ち取りここまで無失点。

 南海は初回、一死後岩出清が四球で出塁、岡村俊昭は右飛に倒れるが吉川が右翼線に二塁打を放って二死二三塁、しかし期待の岩本義行は三振に倒れる。

 南海は3回、先頭の藤戸逸郎が左翼線にヒット、トップに返り国久松一が送って一死二塁、岩出は中飛に倒れるが岡村は四球、更に重盗を決めて再び二死二三塁、しかしここも吉川が三振に倒れて無得点。

 南海は5回、先頭の藤戸が四球で出塁、国久が二打席連続で送りバントを決めて一死二塁、岩出は遊ゴロに倒れて二死二塁、岡村が中前に先制タイムリーを放って1-0とする。

 阪急は5回裏、一死後新富卯三郎が中前打で出塁、伊東甚吉のバントは犠打となって二死二塁、石田光彦は四球を選んで二死一二塁、トップに返り西村正夫に代わる代打森田定雄の遊ゴロをショート前田貞行がトンネルする間に二走新富が還って1-1の同点、一走石田も三塁に達して二死一三塁、ここで森田の代走中島喬が二塁に走りキャッチャー吉川が二塁に送球するとストップ、中島が一二塁間に挟まれる間に三走石田がタイミング良くホームを突いて2-1と勝ち越し、中島は「2-6-1-6」でタッチアウトとなり盗塁失敗が記録されたため石田にはホームスチールは記録されない。

 阪急は7回、一死後上田藤夫が左前打で出塁、上田が二盗を決めて新富の三ゴロの間に三進、伊東が四球を選んで二死一三塁、石田が中前に貴重なタイムリーを放って3-1と突き放す。


 石田光彦は5安打3四球3三振の完投で7勝目をあげる。翌日の満州日日新聞によるとカーブが良かったとのこと。石田の投打走に渡る活躍で阪急が快勝した。










*石田光彦は5安打完投で7勝目をあげる。5回の攻撃では本盗こそ記録されなかったが実質ホームスチールを決め、7回には貴重なダメ押しタイムリーを放った。











 

2013年1月22日火曜日

ダイナスティ



 スタン・ミュージアルと共にアール・ウィーバーの訃報も伝わっています。


 1970年代前半、“ダイナスティ”と呼ばれた無敵のボルティモア・オリオールズを率いた名将です。71年に日米野球で来日したオリオールズは日米の力の違いを見せつけてくれました。78年に来日した“ビッグ・レッド・マシン”と共に、この試合を見て大リーグに興味を持った方が数多く存在します。2012年10月8日付けブログ「ボルチモアムクドリモドキ 後編」をご参照ください。




*1971年ボルティモア・オリオールズのチームサインボールです。スウィートスポット上段がアール・ウィーバー監督のサインとなります。















 

2013年1月21日月曜日

15年 名古屋vsタイガース 8回戦 満州リーグ


8月9日 (金) 奉天 満鉄球場

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 1 0  1 名古屋      34勝24敗5分 0.586 西沢道夫
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 タイガース 36勝24敗3分 0.600 三輪八郎 若林忠志

勝利投手 西沢道夫 11勝5敗
敗戦投手 三輪八郎 11勝3敗

勝利打点 なし


劇的な幕切れ

 名古屋は2回、先頭の桝嘉一が左前打で出塁、しかしキャッチャーカイザー田中義雄からの牽制球にタッチアウト。

 名古屋は4回、先頭の大沢清が右前打で出塁、吉田猪佐喜が四球を選んで無死一二塁、桝の投ゴロでピッチャー三輪八郎は三塁に送球して大沢は三封、三浦敏一が左前打を放って一死満塁、中村三郎の一塁ハーフライナーに一走三浦が飛び出しファースト松木謙治郎が一塁ベースに入って無補殺併殺。

 タイガースは2回~6回まで毎回先頭打者を出すが何れも無得点。2回は松木が四球、3回は三輪が四球、4回も松木が四球、5回も三輪が四球と4イニング連続先頭打者が四球で出塁するが後続なし。6回は先頭の伊賀上良平がショートに内野安打、松木が四球を選んで無死一二塁、田中が三前に送りバントを決めて一死二三塁、宮崎剛に右飛で三走伊賀上がタッチアップからホームを突くがライト吉田猪佐喜からのバックホームにタッチアウト。

 名古屋は8回、先頭の芳賀直一が中前打で出塁、西沢道夫が投前に送りバントを決めて一死二塁、トップに返り石田政良が四球で一死一二塁、村瀬一三も四球を選んで一死満塁、タイガースベンチはここで先発の三輪から若林忠志にスイッチ、大沢の当りはファーストライナー、松木が捕って二塁に送球するがこれが悪送球となる間に三走芳賀がホームインして1点を先制する。

 タイガースは8回も先頭の皆川定之が四球で出塁、本堂が送って一死二塁、しかし伊賀上は三振、松木は二ゴロに倒れる。

 タイガースは9回、先頭の田中が左前打で出塁、代走に釣常雄を起用、宮崎は三振、森国五郎の二ゴロの間に田中が二進して二死二塁、若林が中前にヒットを放ち二走釣は三塁ベースを蹴ってホームに突進、センター石田からのバックホームに釣は本塁寸前タッチアウト、劇的な幕切れで名古屋がタイガースを降す。


 名古屋は6回のライト吉田猪佐喜、9回のセンター石田政良の2つのバックホームで逃げ切った。


 西沢道夫は5安打7四球3三振、今季5度目の完封で11勝目をあげる。










                 *西沢道夫は5安打完封で11勝目をあげる。

















*6回は伊賀上良平が「9-2」とライト吉田猪佐喜からのバックホームにタッチアウト、9回は代走釣常雄が「8-2」とセンター石田政良からのバックホームにタッチアウト。










 

2013年1月20日日曜日

ザ・マン



 スタン・ミュージアルの訃報が伝えられています。ミュージアルついては2012年1月9日付けブログ「ガスハウスギャング ④」に書いていますので重複は避けますが、「野球に興味がなかった亡き父と一度だけ大リーグの話をしたことがありましたが、話題はスタン・ミュージアルでした。」についてだけ補足させていただきます。

 スタン・ミュージアルが日米野球で来日したのは昭和33年10月20日で最終戦が11月16日なので1ヶ月ほど日本に滞在していたことになります。私が神戸で生まれたのが昭和33年11月2日ですが、この日は西宮球場でカージナルスvs全日本戦が行われています。私が生まれた日に隣町でスタン・ミュージアルが野球をやっていました。この年の日米野球は16試合行われましたが、西宮球場ではこの1試合だけです。私が大リーグに興味を持ち始めた中学時代、父から「スタン・ミュージアルは凄い選手だった。」と聞かされた時はほとんど野球の話をしたことがなかっただけに不思議な感じがしましたが、多分これが理由でしょう。



 ベースボール・マガジン社から1978年に刊行されたスタン・ミュージアル伝のタイトルは「大リーグ最高のプレイヤー」ですが、私が考える大リーグ史上最高の選手はスタン・ミュージアルです。第二次大戦以前のタイ・カップ、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、戦中から戦後にかけてのジョー・ディマジオ、テッド・ウイリアムス、スタン・ミュージアル、戦後のミッキー・マントル、ウィリー・メイズを勉強すれば大リーグ史を語ることができます。そこからハンク・アーロン、ロベルト・クレメンテ、ピート・ローズ、マイク・シュミット、オジー・スミス、バリー・ボンズ、ケン・グリフィーJr、アルバート・プホルスへと連なっていきます。彼らの系譜をマイク・トラウト、ブライス・ハーパーが受け継いでいってくれるのか、2010年代の大リーグ野球を「ザ・マン」は天国から見守ることとなりました。





*我が家の玄関に飾っているスタン・ミュージアルのサイン入り写真。一度落としたのでガラスにひびが入っています。