2012年10月17日水曜日

15年 ライオンvsタイガース 5回戦



6月7日 (金) 甲子園

1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 ライオン       9勝26敗1分 0.257 福士勇
0 0 3 0 0 0 1 0 X  4 タイガース 20勝14敗2分 0.588 藤村隆男 木下勇

勝利投手 木下勇 8勝6敗
敗戦投手 福士勇 3勝10敗

二塁打 (ラ)広田 (タ)山根

勝利打点 カイザー田中義雄 3


藤村隆男-木下勇で完封リレー

 ライオンは2回、先頭の加地健三郎が四球で出塁、福士勇が右前打を放って無死一二塁、タイガースベンチはここで早くも先発の藤村隆男から木下勇にスイッチ、トップに返り玉腰年男は三振、西端利郎が四球を選んで一死満塁、野村高義の二直に一走西端が飛び出してダブルプレー。

 1回、2回と二人ずつ走者を出しながら無得点だったタイガースは3回、一死後本堂保次が左前打、これをレフト鬼頭数雄が逸らす間に本堂は一気に三塁に進む。カイザー田中義雄が右前にタイムリーを放って1点を先制、田中が二盗を決めて松木謙治郎の三塁内野安打で一死一三塁、伊賀上良平の左翼線タイムリーで2-0、中田金一も左前にタイムリーを放って3-0とする。

 タイガースは7回、一死後本堂が四球を選んで二盗に成功、田中も四球を選んで一死一二塁、松木が右前にタイムリーを放って4-0とする。

 3回途中からリリーフ登板した木下勇は7回を投げて4安打3四球1三振無失点の好投を見せて8勝目をあげる。タイガースは藤村隆男と木下の継投でシャットアウト勝ち。


 タイガース打線は11安打を放ち4盗塁を決めた。4つの盗塁を許したライオンのキャッチャー広田修三についてWikipediaには「非常に肩の強い選手であったが、打撃が課題でスタメンを得ることができなかった。」(2012年10月16日現在)と書かれているが、本日は4盗塁を許している。広田は通算打率は低いので打力が落ちると見られがちであるが時々強打も見せる打者である。タイガース時代は強力捕手陣に阻まれてレギュラーではなかったが、ライオン移籍後はスタメンの座をつかんでおりWikipediaの記述は正確性を欠いている。












             *タイガースは藤村隆男と木下勇の継投で完封リレー。



















     *11安打で4盗塁を記録したタイガース打線。


















 

6 件のコメント:

  1. wikipediaにツッコミは無用ですね。

    広田修三は当時の寸評によると、強肩無比で二塁へ糸を引いたような送球をみせるとあります。ただし、動作が少しに鈍く、一塁カバーなどに遅れるような捕手だったそうです。

    広田捕手の実力は金鯱軍から大阪タイガースに移籍する時の条件からすると、やはり第二捕手レベルだったのではないでしょうか。

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    1. 盗塁はキャッチャーの肩だけが要因ではありませんね。広田は昭和17年には四番も打っていますので打撃が弱かったとも思えません。

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    2. 確かに広田は打撃が弱いとは思えませんね。1936年4月29日大阪タイガース初公式戦は4番・捕手で先発出場しています。露払いに黒沢俊夫、太刀持ちに三上良夫でした。

      余談ですが、戦前職業野球の全シーズンに出場した野手は広田と佐藤武夫だけですね。

      http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    3. 昭和11年5月25日発行「聯盟広報」第二号に掲載されている金鯱の公式戦初試合のテーブルスコアでは広田修三は4打数無安打3三振となっています。但し金鯱はこの試合1安打ですがテーブルスコアではメンバー全員が無安打となっていますのでどこかに誤記載があるはずなので、広田が1安打を放っている可能性もあります。野球体育博物館の学芸員の方の話でも「聯盟広報」、「聯盟ニュース」に記載されているテーブルスコアは山内以九士氏が確認したところ間違いが多いとのことです。

      坪内道則は昭和11年春・夏に分類されている試合にだけ出場していないので全シーズン出場とはならないということでしょうか。

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  2. 36年当時に公式記録員は存在しませんでしたが、委嘱という形で、同盟通信(現共同通信)の秋山慶幸、秋山如水、読売新聞の宇野庄治、小島六郎が記録員を務めていました。
    委嘱記録員によって集められた記録は同盟通信を通じて、読売、国民、名古屋、新愛知、都の各新聞社に流し、聯盟広報に集録していたそうです。
    "ルールブックの神様"山内氏は戦後になって誤植を確認していったのでしょうか。

    坪内は8月立大中退、9月大東京軍入団。実働年数のみですと該当しますがね。
    出入りが激しかった戦前の職業野球において、選手・監督・審判員の公式登録が初めて施行された時から、全シーズン球団に選手として在籍し続けた広田と佐藤武両選手は理由はされど、多少の評価はあってもいいのではないかと私個人は思っています。

    佐藤武は膝の故障持ちで、軍隊に召集されては即日帰郷を繰り返したそうですが、広田も身体の何処かを悪くしていたのかもしれませんね。

    http://eiji1917.blog62.fc2.com/

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    1. 野球体育博物館で見た「聯盟広報」、「聯盟ニュース」には所々チェックが入っており、職員の話では山内以九士氏が確認した痕跡ではないかということでした。

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