2012年3月10日土曜日

14年 阪急vs南海 10回戦


9月19日 (火) 甲子園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 阪急 47勝24敗1分 0.662 重松通雄 石田光彦
2 0 0 1 0 0 1 0 X 4 南海 30勝39敗4分 0.435 劉瀬章 宮口美吉


勝利投手 劉瀬章   7勝9敗
敗戦投手 重松通雄 9勝9敗
セーブ  宮口美吉 1


二塁打 (南)吉川
三塁打 (南)鶴岡、中田


中村金次、3打数3安打3打点


 阪急・重松通雄、南海・劉瀬章の両下手投げの対決。

 南海は初回、二死後鶴岡一人がセンター右奥に三塁打、国久松一は四球から盗塁、中村金次が左前に先制の2点タイムリーを放って2-0とする。

 阪急は3回、二死後西村正夫が四球を選んで出塁、上田藤夫が右前にエンドランを決めて二死一三塁、山下好一の四球で二死満塁、田中幸男の中前タイムリーで三走西村に続いて二走上田もホームを狙うがセンター国久松一のバカ肩にタッチアウト。南海は17日の名古屋戦からセンターの岡村俊昭が欠場しており、17日はセンターには平野正太郎が起用されたが今日からしばらく国久がセンターを守ることとなった訳で、阪急は不運であったとしか言いようがない。

 南海は4回、先頭の吉川義次が右中間に二塁打、上田良夫の遊ゴロで二走吉川が三塁に走ると良夫の兄貴・上田藤夫が三塁に悪送球して無死一三塁、上田良夫が二盗を決めて中田道信四球で無死満塁、阪急ベンチはここで先発の重松を下げて石田光彦をマウンドに送るが劉瀬章に代わる代打岩出清が押出し四球を選んで3-1とする。

 南海は7回、先頭の平井猪三郎が左前打で出塁、小林悟楼が右前打、鶴岡四球で無死満塁、一死後中村の右犠飛で4-1とする。

 劉瀬章は4回で降板して5安打2四球1三振。5回からリリーフした宮口美吉は5イニングを投げて3安打2四球4三振無失点であった。公式記録では劉瀬章に勝利投手が記録されているが現行ルールでは宮口美吉が勝利投手となる。当ブログは記録されている当時の記録を尊重しておりますので、宮口には当ブログルールによりセーブが記録される。

 中村金次が3打数3安打3打点の活躍を見せた。


 本日は重松通雄、劉瀬章の両下手投げの対決となりましたが、夏の甲子園で二年連続同県の他チームによる下手投げエースによる優勝が記録されたのは1970年、71年のことです。

 こじつけネタもここまでくるとちょっと苦しいですが、1970年の第52回全国高等学校野球選手権大会は神奈川県代表の東海大相模が下手投げの上原投手をエースに優勝しました。箕島高校の島本講平が前年の三沢高校・太田幸司に続いて「コーちゃんブーム」を巻き起こした年です。注目選手は高松商業の剛腕・大北敏博(この年巨人がドラフト2位指名)と岐阜短大附属の湯口敏彦(この年巨人がドラフト1位指名)でしたが、東海大相模は準決勝で岐阜短大附属を破り、決勝では新美敏投手(日本楽器を経て1973年に1年だけ存在した日拓ホームフライヤーズに入団して新人王)のPL学園を破って初優勝しました。上原投手は東海大学に進みましたがボウリングに転向したようです。

 1971年は下手投げのエース大塚投手を擁して桐蔭学園が、「小さな大投手」田村投手を擁して決勝に勝ち上がってきた磐城高校を破って二年連続神奈川県に真紅の大優勝旗を持ち帰りました。大塚喜代美投手は三協精機、日本鋼管を経てライト工業に移り、1983年9月20日に茨城県営堀原運動公園野球場で行われた天皇賜杯第38回全日本軟式野球大会に東京都代表として出場し、決勝で宮崎県代表の田中病院と“伝説の”延長45回を戦って優勝した時もリリーフピッチャーとして登板するなど息の長い活躍をされています。因みに田中病院の池内投手は延長45回を完投して516球を投げて17打数2安打を記録しています。

 「小さな大投手」田村投手は日本大学では準硬式に転向し、殆ど毎シーズン優勝していたようです。磐城高校準優勝チームからは我が準硬式野球部に三人が入部して私の五代上から三代上までのキャプテンでした。入部してまず覚えさせられるのが「磐城体操」でした。三代上(すなわち私が一年の時)のキャプテンは地元に戻られました。震災後、「水を送ってくれ」との連絡がきましたので、勤務先を早退してペットボトルを集めました。当時はスーパーはどこも売り切れでコンビニも一人2本までの制限がありましたが、自宅の一番近くのコンビニの店長に事情を話すと「全部持って行け」と言ってくれて感激しました。




                   *重松通雄、劉瀬章の下手投げ対決。












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