2012年1月13日金曜日

14年 ライオンvs阪急 8回戦


8月16日 (水) 横浜


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 ライオン 20勝33敗5分 0.377 近藤久 福士勇
0 0 1 1 0 0 0 0 X 2 阪急   40勝19敗     0.678 高橋敏



勝利投手 高橋敏 13勝5敗
敗戦投手 近藤久   0勝9敗


二塁打 (阪)山下好

高橋敏、完投で13勝目


 阪急は3回、先頭の黒田健吾が左前打を放って出塁、山下好一が三遊間を破り黒田が三塁に走り無死一三塁、ここはエンドランがかかっていたか、と書いたところで翌日の読売新聞を確認したら「3回黒田と山下好の鮮やかなヒット・エンド・ランで近藤をノックアウトし・・・」と書いてありました。ライオン先発の近藤久は3回まで毎回2安打ずつを打たれてここで降板、かつてはナチュラル・チェンジアップを駆使してライオンのエースであったが完全に覚えられてしまったようです。ライオンは二番手として福士勇がマウンドに上がる。上田藤夫の二ゴロで山下好一が二封される間に黒田が還って阪急が1点を先制する。

 阪急は4回、一死後高橋敏が右翼線にヒット、ライト水谷則一が弾く間に二塁に達する。トップに返りフランク山田伝の右前打で一死一三塁、浅野勝三郎の中犠飛で2-0とする。

 ライオンは6回、先頭の玉腰年男が四球を選んで出塁、水谷則一の二遊間のゴロをセカンド林信一郎が好捕してそのまま二塁ベースに入り玉腰はフォースアウト、鬼頭数雄が右前打を放って一死一二塁、岡本利之が左前にタイムリーを放って1-2とする。続く西端利郎の二ゴロをセカンド林がエラーして一死満塁、しかし山本尚敏の遊ゴロは「6-4-3」と渡ってダブルプレー。

 ライオンは最終回、先頭の西端が右前打を放って出塁、山本が送って一死二塁と一打同点の場面を迎えるが井筒研一は三ゴロ、福士に代わる代打菊矢吉男も三ゴロに倒れて万事休す。

 高橋敏は8安打1四球5三振の完投で13勝目をあげる。


 本日で横浜平和球場の試合は終了し、8月一杯は後楽園球場で行われることとなる。





*昭和51年7月31日、全国高校軟式野球 神奈川大会 準決勝での打席。横浜平和球場で行われました。矢張り照明設備はありません。平和球場はこの年を最後に解体され、現在の横浜スタジアムに建て替えられました。横浜スタジアムが開場したのは昭和53年のことです。






*昭和62年4月19日、以前勤めていた会社で後楽園球場を借りて草野球をやった時、マウンドに立たせてもらいました。サクラスターオーが皐月賞に勝った日ですので日にちが特定できます。後楽園球場はこの年を最後に閉場され、翌年解体されて昭和63年に東京ドームが開場します。
 平和球場と後楽園球場の最後のシーズンにグラウンドに立った(恐らく)唯一の人間となったわけです。
 ショートとレフトの姿を見ればレベルが知れますがこれは会社の親睦野球です。これとは別に学生時代の仲間とやっていた「ドルフィンズ」では毎年ニッサングリーンカップに挑戦していました。Wikipediaによると「草野球の甲子園」と呼ばれていたそうです。全国大会まで行くチームは大抵社会人野球のOBチームでした。東京都予選で一度全国大会まで行ったチームに延長の末負けたことがあります。ニッサングリーンカップは1993年を最後に廃止されたようです。バブル崩壊で日産自動車に余裕が無くなったからでしょう。その割にはカルロス・ゴーンに超高給を払い続けています。そのような無駄な経費を削ってニッサングリーンカップを継続する方がはるかに社会的意義が高いということに気づく脳みそを持っていないとは情けない話です。



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