2012年1月6日金曜日

14年 イーグルスvs南海 7回戦


8月13日 (日) 横浜


1 2 3 4 5 6 7 8 9 10  計
0 0 0 1 0 0 0 0 0  0   1 イーグルス 17勝37敗1分 0.315 望月潤一
1 0 0 0 0 0 0 0 0 1X  2 南海           23勝30敗3分 0.434 劉瀬章 天川清三郎 政野岩夫


勝利投手 政野岩夫 10勝9敗
敗戦投手 望月潤一   4勝14敗


三塁打 (南)政野

政野岩夫、殊勲のサヨナラ三塁打


 南海は初回、一死後小林悟楼が四球を選んで出塁、鶴岡一人の中飛をセンター寺内一隆が落球して一死一三塁、清家忠太郎のパスボールの間に小林が還って1点を先制する。

 イーグルスは4回、先頭の太田健一が左前打で出塁、レフト平井猪三郎がこれを一塁に送球するが悪送球となる間に太田は二塁に進む。平井はレフトゴロを狙ったのか。南海の後輩となる大沢啓二(親分)が立教大学時代にレフトゴロをやったことがあるそうですが。寺内は二飛、高須清は中飛に倒れるが中河美芳の投ゴロをピッチャー劉瀬章が一塁に悪送球する間に太田が二塁から一気にホームに還って1-1の同点とする。

 南海は5回の守備で先頭の筒井良武に左前打を打たれたところで二番手天川清三郎を投入して後続を断ち、9回に漆原進左前打、筒井の送りバントを天川が間に合わない二塁に投げて野選となり無死一二塁とすると、三番手に政野岩夫を投入して後続を断つ。結果的にこの継投策が勝因となった。

 南海は延長10回裏、先頭の中田道信が左前打で出塁、政野岩夫が左中間を抜いて中田を迎え入れてサヨナラ勝ちを飾る。

 劉瀬章は4回3分の0を投げて3安打2四球無三振1失点で自責点はゼロ、天川清三郎は4回3分の0を投げて2安打1四球1三振無失点、政野岩夫は2回を投げて無安打無四球無三振無失点であった。


 望月潤一は9回3分の0を完投して7安打4四球2三振2失点、自責点は1であった。望月は勝星には恵まれていないが原因はチーム状態が悪過ぎることにある。イーグルスは夏季シリーズに入って4勝19敗となり断トツの最下位となっている。竹中半平著「背番号への愛着」によると望月は「入営を前に控えた最後の1年は実にうまい投球を示した。スピードはないが、いいコントロールとスローカーブ。・・・私は彼を1点投手に入れたことがあったのだ・・・」とのこと。1点投手とは何点取られるかを予想するもので、スタルヒンが0~1点、野口二郎が1点投手とのことなのでかなり高い評価をしていたことになる。同著には「戦後に彼の名をロビンスのメンバーに見つけたが・・・」ともある。昭和21年のパシフィック(後の松竹ロビンス)のメンバーに背番号20・望月潤一の名が出てくる資料も存在する。プロ野球50年史(ベースボール・マガジン社)では昭和21年のパシフィックの背番号20は「芝田良三」となっており望月は載っていない。、望月を背番号20とする資料では「芝田良三の背番号は不明」となっている。望月の公式記録には昭和21年の実績は残されていない。在籍はしていたが登板が無かったのか、当時は戦後の混乱がまだ終わっておらず登録だけされていた可能性もある。昭和21年のパシフィックにはイーグルスのチームメイト高須清や望月と交流があったスタルヒンも在籍しているので同じチームに誘われていてもおかしくはないのですが。



             *南海が三投手の継投でイーグルスに競り勝つ。





2 件のコメント:

  1. 望月に関する戦後の状況についてのコメントありがとうございます。息子の私も詳しい事は、聞きそびれてしまいました。大まかな話として終戦後、21年に帰国し、誘われて一時
    松竹ロビンス系のチームに入ったが、すぐに試合に投げるように要請され、戦争でボロボロになった体では、即応は無理と判断し、そのあと、誘いのあったノンプロの間組に入り、そこで、打者(1塁手)として2年足らずプレーしたようです。

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  2. この時のパシフィック監督・藤本定義の自伝「覇者の謀略」に「プロ野球再建となったとき、選手集めは、早い者勝ちということであった。復員し、あるいは帰郷している選手を早く探しだして、早く契約したチームが、自分のところの選手だと名乗りをあげればよいという調子だったのである。」と書かれています。恐らく高須清かスタルヒンを介して声が掛かったのではないでしょうか。

    同著には「みんないいヤツたちだった。・・・昔の選手には、人情と意気に生きようとするところが多分にあった。・・・白石にしても藤井にしても、また小島も高須も、金ではなく、私を慕って集まったのであった。」とも書かれています。スタルヒンが戦後、ジャイアンツには戻らず藤本監督と行動を共にしたのも、日本人以上に日本人らしいと言われたスタルヒンの心意気からでしょう。

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