2011年11月23日水曜日

投手・中村三郎


 昭和14年の名古屋は春先から松尾幸造を使いまくり故障、期待のルーキー村松幸雄も故障、松尾と共に二枚エース候補の西沢道夫も故障と、三本柱が投げられなくなり、4月23日の堺大浜球場では繁里栄が現在においてもプロ野球史上唯一のダブルヘッダー二試合連続完投勝利(しかも第一試合は完封)を記録する程の投手不足となり、大沢清と中村三郎がマウンドに上がることとなりました。

 中村三郎が初登板した4月22日の堺大浜球場でのイーグルス2回戦(2011年9月1日付けブログ)で、中村は諏訪蚕糸時代は名投手と謳われていたことが長野県高校野球史を伝える貴重な文献「甲子園からの手紙 松商野球の源流」に記されていることを書きました。最近になって、更に重要な事実関係が判明いたしましたのでお伝えいたします。

 昭和13年2月25日発行の聯盟ニュース第24号に掲載されている「戦線だより」に「大活躍!のラ軍中村上等兵」の見出しで「ライオン軍中村三郎選手は上等兵として・・・に属して目下北京の警備に任じているが、去る1月陣中徒然なるままに行われた対抗野球試合でプレートに返り咲き、四戦全勝の記録をもって見事優勝、・・・正月気分を高めたと、この程ライオン軍に便りがあった。」と記載されています。

 この中の「プレートに返り咲き」の部分は、諏訪蚕糸時代にピッチャーであった中村三郎がプロに入ってセカンドを中心に内野手に転じてから兵役に就き、戦地において久々にマウンドに上がったことからこのような記載になったのではないでしょうか。久々のプレートの感触に興奮した中村がその喜びを戦地からの手紙でライオン球団に伝えたものと考えられます。

 三本柱の故障によって中村三郎がマウンドに上がる下地は、戦地にてできていたようです。

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