2011年8月28日日曜日

14年 ライオンvs名古屋 3回戦

4月18日 (火) 甲子園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
1 0 0 0 0 0 0 0 3 4 ライオン 7勝6敗3分 0.538 菊矢吉男
0 0 0 1 0 0 0 0 2 3 名古屋   5勝8敗2分 0.385 村松幸雄 松尾幸造


勝利投手 菊矢吉男 5勝3敗
敗戦投手 村松幸雄 2勝2敗


二塁打 (名)天野


菊矢吉男、投打に活躍


 名古屋は今季中村三郎が移籍してきたのでファースト中村、サード大沢清という布陣を敷いてきたが前の試合から大沢が欠場(怪我か?)しており中村がサードに入って前の試合では二番ファーストに鈴木秀雄、本日は八番ファーストに田中実を起用する。

 ライオンは初回、先頭の坪内道則の三ゴロをそのサード中村三郎がエラー。玉腰年男がセンター左にヒットを放って無死一二塁、水谷則一の一ゴロで玉腰が二封されて一死一三塁、鬼頭数雄が右前に先制タイムリーを放って1-0とする。続く室井豊の遊直に二走水谷が飛び出しダブルプレー。

 名古屋は4回、先頭の加藤正二が二塁に内野安打(翌日の読売新聞には「二塁左を抜く安打」と書かれています。まぁこの手の齟齬はいくらでもありますが、当ブログではスコアブックに残されている記録に基づいてお届けしております。)、続く中村の右前打で加藤は三塁に進み無死一三塁、服部受弘の三ゴロで中村が二封される間に加藤が還って1-1の同点とする。芳賀直一の三ゴロは「5-4-3」と渡ってダブルプレー。

 ライオンは9回、先頭の玉腰は右飛に倒れるが水谷が中前に快打、鬼頭が四球を選んで室井は二塁に内野安打(こちらは読売新聞にも「村松のグラブを弾いて二塁手の拾う安打」と書かれています。)して一死満塁とする。ここで名古屋ベンチは村松をあきらめ松尾幸造をマウンドに送る。菊矢吉男が右前に2点タイムリーを放って3-1として室井も三塁に進み、西端の三塁内野安打で4-1とする。

 名古屋は9回裏、先頭の村瀬一三が左前打で出塁、桝嘉一は左邪飛に倒れるが加藤が四球を選んで一死一二塁、中村が中前打して一死満塁、服部は二飛に倒れて二死満塁、ここで名古屋・根本行都監督は二打席連続併殺打の芳賀に代えて代打に天野竹一を起用、天野が期待に応えて一塁線を抜く二塁打を放ち二者生還して3-4、一走中村も三塁ベースを回りかけるがストップして二死二三塁、続いて田中実に代えて代打に繁里栄を起用するが繁里は一ゴロに倒れてゲームセットを告げるサイレンが高々と鳴り響く。

 菊矢吉男は9安打2四球5三振の奮投で今季5勝目をあげる。自ら決勝タイムリーを放ち投打で活躍。


 9回裏、代打に出て2点タイムリー二塁打を放った天野竹一は掛川中学(現・静岡県立掛川西高等学校)出身、昭和12年卒なので本日先発した村松幸雄(掛川中学・昭和13年卒)の一年先輩となるが名古屋では同期入団となった。明治大学に1年在籍して今年名古屋入りしたようであるが多くの資料では掛川中学出身となっている。恐らく明大を中退しているのでしょうが、例えば景浦将は立教大学を中退してタイガース入りしているが立大出身と書かれることが多い。因みに天野の卒業年度が昭和12年というのは中日新聞の掛川西高校100周年特集記事がソースですから間違いは無いでしょう。天野はプロでは2年間の在籍で通算30打数3安打5打点、二塁打1本の記録を残すこととなる。1本の二塁打はこの日の代打2点タイムリー二塁打で、通算3安打で5打点ということなので今後も劇的な場面でのタイムリーが見られるかもしれません。「目立たない」などと書かれているサイトもありますが、実は結構目立っているのかもしれません。

 プロ野球史上に残る劇的な選手と言えば元阪神タイガースの池田純一(祥浩)でしょう。何しろ通算80本塁打のうちサヨナラ本塁打が5本です。但し池田が球史に名を残したのは1973年、巨人と激しく競り合っていた年、黒江の打球に転倒して逆転された「世紀の落球」です。池田の劇的人生の始まりは甲子園にあります。1964年夏の甲子園、開会式直後の第一試合で八代東高校のマウンドに上がった池田は掛川西高校を相手に延長18回を0点に抑えて引き分け、再試合で敗れます。5年後の決勝では三沢高校の太田幸司が同様のパターンで敗れてヒーローとなったのはご存じのとおり。池田がプロで強肩で鳴らしたのも当然ですね。



            *池田祥浩のカルビーベースボールカード












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