2011年8月24日水曜日

千話球題



 1974年、神奈川県の高校に入って中学時代の友人と「なんかやろうか」ということになり軟式野球部に入りました。硬式の練習も見に行きましたが二人とも千葉県市川市から通うので「ちょっと無理かな」ということになった訳です。ちょっとどころかその夏、準決勝で永川の横浜高校に接戦の末負けた訳ですから入っていたら簡単にドロップアウトしていたでしょう。

 3年生が二人、2年生が七人のところに1年生が三人入りました。夏は1回戦でコールド負け、新チームが発足します。3年生が二人抜け、1年の二人がレギュラーとなり、守っている時は私が一人監督の横でスコアブックを付けていました。この時の経験が30数年後、一リーグ時代のスコアブック解読に役立つとは想像すらしていませんでした。秋の大会も1回戦負け、その後の練習試合で途中出場して中前と左前にヒットを放ち2打数2安打、やっと先輩を一人抜いてライトのレギュラーになりました。この頃には部員も少し増えて1年生も7人くらいになっていました。

 中学時代は、野球体育博物館に通った回数では誰にも負けない自信がありましたがプレイヤーとしては草野球しか経験はありません。小学校時代は近所では鳴らしていましたが。

 姫路出身の一年先輩の背番号1の左のショート(すなわち元エース)は東洋大姫路からスカウトされたそうで、硬式の連中も「あの左は何者?」と不思議がっていました。その元エースに代わってエースになった背番号6の先輩は、私の同期の硬式で強肩強打で有名な奴(大学では神宮でレギュラーになりました。)より肩が強かったようです。

 硬式からも誘われながら何故軟式にいるのかが不思議なくらいの二人の先輩が三番、四番におり、全国大会出場が目標となってきました。夏合宿を成田で張った帰りに習志野高校と練習試合を行い、この試合で高校・大学を通じて唯一の三塁打を右中間に打ちました(当然本塁打は7年間でゼロ本)。この一打が効いたのか定かではありませんが、夏の大会の1回戦から五番に起用されました。

 夏の神奈川県予選を勝ち進み、準決勝では日大藤沢に6対5で辛うじて勝って決勝に進出します。軟式では準決勝、決勝は同一日に行いますが、我々は第一試合でしたので2時間ほど休みがありましたが準決勝第2試合を勝ち上がってきた湘南高校はへろへろで、決勝は6対1で楽勝しました。神奈川新聞では軟式は決勝戦だけ写真入りで報道されます。決勝戦は大した山場もなく過ぎましたが、私の中前ダメ押し2点タイムリーで三番、四番の先輩がホームに還ってきたシーンが掲載されました。


*神奈川新聞社のご厚意によりいただいた報道用写真。中前にダメ押しタイムリーを放った瞬間。



             *この後三塁に進み・・・




*私が五番に上がったおかげで六番に下がったキャプテンの内野ゴロの間に生還。




 10年ほど前に全国優勝したことがあるという話は入部してしばらくしてから聞いたことがありましたが、21回大会で7度目の優勝というのは新聞記事で初めて知りました。但し、その後の30数年で夏の優勝は2回か3回です。我が部の全盛期の最期に何とか引っ掛かったようです。この後神奈川代表として出場した南関東大会で千葉代表の市川高校に敗れて全国大会出場はなりませんでした。
 
 3年生が七人抜けて、五番ライトの私がキャッチャーにコンバートされて四番、もう一人のファーストのレギュラーが三番ピッチャーで新チームが発足しました。私もそうですが、残りの七人は素人同然です。秋の大会は1回戦コールド負け。一年生のサードが最も素質が高く、間もなくエースとなって私とバッテリーを組むこととなりました。何とかチームの格好もついてきて、3年の夏は神奈川でベスト四まで行きました。メンバーから見て、前年の優勝より価値が高かったと自信を持って言えます。


*高3の準決勝での打席。この直後に解体された横浜平和球場(通称ゲーリッグ球場)です。現在は横浜スタジアムに建て替えられています。


 

 大学では準硬式野球部に入ります。2年の春のリーグ戦寸前、ファーストのレギュラーが怪我をしました。明治との1回戦、四番センターの先輩がファーストに回り、オープン戦にも出場していなかった私が八番ライトに起用されました。第一打席は送りバント、第二打席で六大学No1のサイドハンド、明治のエースからライト前にヒットを打ちました。このシーズンは15打数4安打。シーズン終了後レギュラーになりましたが2年秋、3年春は惨憺たる成績で打率は1割台でした。


*2年春の東大戦。前の打席で同点ホームランの直後に代打で起用されてボテボテの三塁ゴロ。延長10回の2打席目は外角ストレート一本に絞ってのイメージトレーニング中。集中していたのでしょう、写真を撮られていることには気が付きませんでした。この打席では中前に試合を決めるタイムリーを放ちました。
 ベンチ入りは25人程度、若い番号は先輩から埋まっていきます。稲尾の24を希望していたので残っていた時はラッキーと思いました。卒業後20年ほど続けた草野球でも可能な限り24番を付けていました。(東伏見グラウンド)



 3年の夏合宿で打撃フォームを大幅改造しました。この年33試合連続ヒットの日本新記録を樹立した高橋慶彦のフォームを真似てみたところ、秋のシーズンは32打数10安打で奇跡的に外野部門のベストナイン三番目に滑り込みました。

   
              *日吉台グラウンドにて。
 



*三年の時は澤村の14が空いていましたので即決しました。




 但し無理は禁物、手首を痛めて4年のシーズンは元に戻りました。肩が痛いくらいは何とか対処できますが、手首を痛めると素振りができなくなり、こうなると素質の無い者としては太刀打ちできなくなります。



*4年時は一応No3でした。キャプテンは10番、エースは18番なので実質私がなんでも選べる立場となりました。背番号1を付ける機会は今回を置いては無いと思い、僭越ながら1を付けました。
 練習不足で左足が開いてフォームはバラバラになっています。(東伏見グラウンド)





 本日の日本経済新聞スポーツ面「フットボールの熱源」に「日本の学校の部活動というのは、欧米人の目にはかなり奇異に映るはずだ。・・・試合に出るのは一部だけ。毎回、応援ばかりで、一度も公式戦に出ずに学生生活を終える選手がたくさんいる。しかもそれが「よく頑張ったね」と、美学として語られることがある。・・・・・公式戦の思い出を楽しく語れる選手を増やすことが、指導者としての使命と考えるべきなのかもしれない(吉田誠一)」というコラムが掲載されています。

 硬式に入っていたらと思うことは何度もあります。体力的に無理だったでしょうが、高校ではレギュラーくらいにはなれたかもしれないという気持ちも一方ではあります。神宮では「お情け代打」が精一杯だったでしょうが。

 東京六大学準硬式リーグ戦では通算200打数に出ることができました。ヒットは37本でしたが。3年秋には奇跡としか言いようがないながら外野部門のベストナイン三番手に滑り込むこともできました。どの道を選択するかは人それぞれですが、プレイヤーである以上、グラウンドで活躍してなんぼです。今夏の甲子園でも、上位校は部員が100人近く、その八割はアルプススタンドで応援しているだけです。本当に他人を応援するために野球の道を選んだのか、矢張りプレイヤーである以上、試合に出て一瞬に燃焼するべきではないでしょうか。


 閑話休題、明日の1001回から、実況中継を再開します。




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