2011年6月4日土曜日

13年秋 名古屋vsジャイアンツ 5回戦

11月6日 (日) 後楽園


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 0 2 0 0 0 0 0 2 名古屋     18勝12敗3分 0.600 松尾幸造 西沢道夫
1 0 0 2 0 0 0 2 X 5 ジャイアンツ 24勝6敗1分   0.800 スタルヒン


勝利投手 スタルヒン14勝2敗
敗戦投手 松尾幸造 11勝5敗


二塁打 (ジ)平山


スタルヒン、気魄の14勝


 名古屋は変則ダブルの第二試合。第一試合に12奪三振、145球で完封した松尾幸造を連投で持ってきた。三位阪急にゲーム差無しまで追い上げてきた根本行都監督は捨て身を見せた。第一試合は10時30分試合開始、11時55分試合終了。第二試合は午後12時30分、沢東洋男プレートアンパイヤの右手が上がりプレイボール。

 ジャイアンツは初回、一死後白石敏男が中前打で出塁、千葉茂の三ゴロをサード倉本信護がエラー、続く中島治康の二ゴロもセカンド戒能朶一がエラーする間に白石が生還して1点を先制する。

 スタルヒンに3回まで1安打に抑えられていた名古屋は4回、一死後桝嘉一がツースリーから四球を選んで出塁、大沢清の一ゴロをファースト川上哲治がエラー、白木一二が右前にタイムリーを放って1-1の同点としてなお一三塁、ここで三走大沢と一走白木の國學院コンビがダブルスチールを決めて2-1と逆転に成功する。

 ジャイアンツは4回裏、一死後川上がワンスリーから四球を選んで出塁、代走に山本栄一郎を起用、平山菊二は三振に倒れるが山本はパスボールで二進、吉原正喜がツースリーから四球、スタルヒンもツースリーから四球を選んで二死満塁、トップに返り三原脩のカウントがツーボールナッシングとなったところでダブルヘッダー連投の松尾が降板して西沢道夫がマウンドに上がる。変わった西沢はストライクを二つ取るが三原がツーツーからの5球目を中前に弾き返し二者還って3-2と逆転する。

 ジャイアンツは8回、一死後平山が左翼線に二塁打、吉原が左前打で続いて一死一三塁、スタルヒンが右前にタイムリーを放って4-2としてなお一死一三塁、三原の中犠飛で吉原が還って5-2とする。センター石田政良からのバックホームの間に一走スタルヒンはタッチアップから二塁に走るが8-2-4と渡ってタッチアウト。

 スタルヒンは3安打3四球13三振の完投で14勝目をあげる。松尾の連投にスタルヒンも燃えたのであろう。8回の走塁など、現在の投手には考えられないプレーです。裕福になり過ぎて細く長く続けることばかりに汲々とする選手だらけになってしまったことが現在のプロ野球が面白くなくなった最大の原因だと思います。



 松尾幸造がダブルヘッダー第一試合で完封して第二試合にも連投で先発しました。高校軟式の夏の大会は準決勝と決勝は同日に行われます(現在は知りませんが1975年当時はそうでした。)。高校二年の夏、準決勝第一試合で日大藤沢を6対5で破って決勝に進出しました。第二試合は(確か)光陵vs湘南(共に神奈川の県立進学校)だったと思いますが湘南が勝ち上がって午後の決勝で対戦しました。向こうは連戦、こちらは2時間以上休んでいますので6対1であっさり勝ちました。当方の背番号6の先輩エース(M先輩)は日大藤沢戦ではほぼ完投、ピンチで左の強打者を迎えたところで背番号1の左の先輩ショート(元エース・T先輩)がワンポイントリリーフに出て抑えてM先輩が再びマウンドに戻って逃げ切りました。午後の決勝はM先輩が連投で完投して優勝しました。

 因みに左のショートT先輩は姫路出身、東洋大姫路(もちろん硬式)からスカウトされたそうです。軟式野球部だと普通は肩身が狭いのかもしれませんが私は硬式の連中とは何故か仲が良く、あの左は凄いとよく言われていました。ロッキーを一緒に見に行ったのも確か硬式の奴でした。エマニエル夫人は軟式のチームメイトと見に行きましたが。

 軟式の試合が神奈川新聞で写真入りで報じられるのは夏の大会の決勝だけです。1975年夏の決勝は我校が湘南を6対1で降す凡戦で写真を使う場面には神奈川新聞社の担当者も迷ったことでしょう。結局使われた写真は五番私の2点中前タイムリーで三番M先輩と四番T先輩が相次いでホームに還る場面でした。確かダメ押しタイムリーだったと思います。後で神奈川新聞社のご厚意により何枚かの報道写真を頂きましたが、私の中前タイムリーの瞬間の写真もありました。この写真のバッティングフォームを見た同じクラスだった硬式の三番(大学では神宮でレギュラーになりました)が「これなら打てる」と言ってました(当然お世辞ですが)。










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