2011年6月3日金曜日

13年秋 タイガースvs南海 5回戦

11月5日 (土) 西宮


1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 7 1 0 0 0 2 0 5  15 タイガース 19勝11敗      0.633 若林忠志
0 1 0 0 0 1 0 0 0  2   南海           7勝23敗3分 0.233 劉瀬章 宮口美吉


勝利投手 若林忠志 1勝2敗
敗戦投手 宮口美吉 4勝10敗


二塁打 (タ)藤村、本堂、伊賀上 (南)高野、上田、海蔵

若林忠志復活!!


 タイガースは2回、一死後伊賀上良平が四球で出塁、カイザー田中義雄の右前打で一三塁、皆川定之の中前タイムリーで1点を先制、若林忠志が中前打で続いて一死満塁、トップに返り松木謙治郎が左前に2点タイムリー、奈良友夫の四球で再度一死満塁、藤村富美男の右翼線二塁打で二者生還、山口政信の遊ゴロの間に奈良友夫が還ってこの回7点をあげる。

 南海は2回裏、一死後中野正雄が四球で出塁、高野百介が左翼線に二塁打、吉川義次の中犠飛で1点を返す。

 タイガースは3回、若林右前打、松木四球とパスボールで一死二三塁、奈良友夫の遊ゴロの間に若林が還って8-1とする。

 南海は6回、一死後中村金次四球、鈴木芳太郎中前打、中野三塁内野安打で一死満塁、高野の遊ゴロの間に中村が還って2-8とする。

 タイガースは7回、この回先頭の田中が右前打、皆川四球で無死一二塁、キャッチャー吉川からの一塁牽制が大暴投となって二走田中が生還、皆川も三塁に進む。一死後松木の二ゴロの間に皆川も還って10-2とする。

 タイガースは9回、一死後若林が中前打、松木四球、本堂右前打で一死満塁、藤村が左前に2点タイムリーからバックホームの間に二進して一死二三塁、山口も左前に2点タイムリー、伊賀上良平遊失後、田中が右前にタイムリーを放ってこの回5点を追加、15対2で快勝する。

 若林忠志は6安打5四球3三振の完投で昭和12年11月7日の名古屋6回戦以来1年振りの勝利投手たなった。和歌山での温泉治療の効果が実証された訳であるが、戦後西鉄のコーチとなった若林は稲尾が肩を痛めた時温泉治療を進言したが西鉄球団が聞き入れず、結果的に稲尾は短命に終わったと言われている。若林が活躍するのは寧ろこれから戦後にかけてであるだけに、この時早期に稲尾が肩を治療していれば300勝は当たり前、金田の400勝に迫ったのではないだろうか。




 記載しているヒットの打球方向を見ていただければ分かると思いますが、タイガースが放った15安打の内センターから逆方向への当りが12本を占めており、逆方向率は8割となっています。私事で大変恐縮ではありますが、大学時代(東京六大学準硬式です、念のため)の通算37安打の内、センターから逆方向への当りが33本を占めており、逆方向率は8割9分2厘とタイガースを上回っております。準硬式とは言え六大学ともなると上位校には甲子園でホームランを打ったような猛者がゾロゾロおり、草野球に毛の生えた程度の実力の私(神奈川軟式出身)としては、こうでもしない限りとてもじゃありませんが太刀打ちできなかった訳です。因みに当時の準硬球界には前にも書きましたが群馬大学には桐生高校の阿久沢(王二世)、W大には浜松商業時代甲子園でホームランを放ち卒業後は母校の監督として甲子園に出場したK氏、磐城高校の甲子園メンバーK(こちらは同世代なので敬称略)、H大には高校時代相模のHか法二のHかと言われた原巨人監督と同姓の左のスラッガーH(同様に敬称略)、東都ではC大に習志野全国優勝時の四番K氏などがおりました。我が部でも私の五世代上から三世代上までは三年連続キャプテンは磐城高校甲子園準優勝時のメンバーでした。因みに「小さな大投手」田村氏は日大の準硬に進み、当時は毎シーズンのように優勝していたと聞いています。



       *昭和38年、西鉄コーチ時代の若林忠志のサイン

 





       *ロイ、バーマ、ウイルソンが入っている貴重なチームサイン






               *裏面の説明書き


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