2011年6月5日日曜日

13年秋 ライオンvs南海 5回戦

11月6日 (日) 西宮


1 2 3 4 5 6 7 8 9  計
0 0 0 0 0 0 0 0 0  0 ライオン 16勝19敗       0.457 菊矢吉男
0 1 0 0 0 0 0 0 X  1 南海        8勝23敗3分  0.258 鈴木芳太郎


勝利投手 鈴木芳太郎 1勝5敗
敗戦投手 菊矢吉男     8勝9敗


二塁打 (南)小林、高野
三塁打 (南)平井

鈴木芳太郎、完封でプロ初勝利


 初回二死から三連続四球のチャンスを潰した南海は2回、この回先頭の平井猪三郎が右中間に三塁打、中田道信は遊ゴロ、鈴木芳太郎は浅い右飛に倒れるがトップに返り小林悟楼が左中間に二塁打を放ち1点を先制する。

 南海は3回に中村金次の内野安打、4回には鈴木の左前打が出るがその後は菊矢吉男に抑え込まれて8回の高野百介の左越え二塁打まで無安打、結局追加点を奪うことはできなかった。

 ライオンは6回まで、3回を除く毎回走者を出しながら鈴木芳太郎を捕まえることができず7回、8回は三者凡退。

 ライオンは9回、この回先頭の中谷順次が左前打で出塁して代走に柳澤騰市を起用、菊谷は三振に倒れるが玉腰年男が中前打、酒沢政夫に代わる代打大友一明は遊飛に倒れて二死一二塁、ここで山本尚敏が三遊間を破ると二走柳澤は三塁ベースを蹴ってホームに突入、レフト高野百介からのバックホームにタッチアウト、試合終了を告げるサイレンが高々とと鳴り響く。

 鈴木芳太郎は7安打5四球4三振の完封で今季初勝利、すなわちプロ入り初勝利を完封で飾ったこととなる。鈴木は10月8日のイーグルス3回戦で南海球団史上初ホームランを放っている。南海球団史上初完封は10月14日のイーグルス4回戦で政野岩夫が達成しており、本日は完封第二号となった。



 鈴木芳太郎は静岡中学(現・静岡県立静岡高等学校)時代には春夏合計7回甲子園に出場しています。鈴木は戦後母校の監督となり、1951年「静岡県立静岡城内高等学校」時代に監督として甲子園に帰ってきました。1953年に静岡高校に改称されます。1973年第55回夏の甲子園、決勝で広島商業に敗れて準優勝に終わった静岡高校は、県立進学校としては史上最強チームであったと思います。江川を打ち崩した銚子商業(翌年夏に優勝)を破り、難敵今治西の矢野に二年生エース・秋本が投げ勝ち、決勝は2対2からサヨナラスリーバントスクイズで広島商業に敗れはしたものの、植松(法大-阪神)、水野、白鳥と並ぶクリーンナップトリオの破壊力には特待生を集めた野球強豪校でもかなうところは無いでしょう。因みに銚子商業黒潮打線は、翌年四番に二年生の篠塚が入り全国優勝しますが、打線はこの年の方が強力だったと思います。根拠は磯村が七番を打っていたことにあります。磯村は作新学院戦では10回裏に江川から三塁打を放ち、12回裏にサヨナラのホームを踏んだ選手として知られていますが、銚子商業では珍しく一年夏からのレギュラーで一年時は一番、二年では五番を打っていました。三年で七番に下がったのは磯村の力が落ちたのではなく、それほどこの年はメンバーが揃っていたと言う証左でもあります。私は七番に四番に次ぐ強打者を配すことができる打線が強力打線であると考えていますが、こう考えるようになったのも磯村の七番に影響を受けているからです。

 静岡高校は鈴木芳太郎、前述の植松精一の他にも日本シリーズMVPの種茂雅之(東映)、オールスター出場の望月充(阪神)、日本ハム時代に白仁天と激しく首位打者を争った小田義人、防御率、セーブのタイトルを獲った赤堀元之等を輩出しており、県内一を争う進学校としては他に例が無いのではないでしょうか。東京で言えば日比谷高校や西高校出身者がプロで活躍するようなものです。神奈川では湘南-慶大の佐々木信也が稲尾さえいなければ新人王を獲っていましたが。日比谷からはバロン西がオリンピックで金メダルを獲っていますがプロ野球選手は輩出していません。西高からは荻村伊智朗が世界卓球選手権に優勝しましたがプロ野球選手は輩出していません。




     *鈴木芳太郎のプロ入り初勝利を伝えるスコアブック






          *植松精一の法政大学時代のサイン



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