2011年6月12日日曜日

全日本大学野球選手権準決勝

 朝からの大雨で順延かと思っていましたが試合時間を遅らせたことが効を奏して予定通り二試合が行われました。神宮球場に着いたのは二時半過ぎだったので第一試合は8回から、東洋大学・藤岡のピッチングは2イニング見ましたが騒がれる程のピッチャーかな?という印象でした。

 お目当ての第二試合、塾OBとしてはあるまじき行為かもしれませんが、慶應義塾以上に古葉監督には一宿一飯の義理がありますので(2010年10月18日付けブログ「1975年10月15日 広島初優勝!」参照)一塁側・東京国際大学サイドの入り口から入りました(と言っても見ていたのはネット裏、内野席は全席自由席ですから三塁側にも行けます。)。生古葉を見るのは1975年10月15日に高校の授業をサボって後楽園に広島初優勝を見に行って以来、36年振りのこととなります。

 シートノックを見た段階で試合の結果は大体予想がつきましたが、古葉監督はいいチームを造ってきました。セーフティバント、盗塁、エンドランで優勝候補慶應をあと一歩のところまで追い詰めました。守備の破綻がなければ間違いなく勝っていました。情けないことに塾は相手のミスに助けられ、最終回以外はヒットで点を取っていません。

 塾の最終回は途中出場の福富が良くボールを見て二打席連続四球、二死二塁から山崎の中前タイムリーで試合を決めました。この中前打はセンターが突っ込んでいれば捕れたと思いますが肩のいいセンターでしたので無理をしなかったのでしょう。但し待って捕ったので勢いがつかず、福富がぎりぎりセーフとなりました。福富の足で無ければアウトだったと思います。福富と山崎で試合を決めるとは、3年前の北神奈川決勝と全く同じです。


 2008年夏の北神奈川決勝は(この年は記念大会だったので神奈川は南と北に分けられ、南は順当に横浜高校が甲子園を決めています。)巨人に入った大田率いる東海大相模vs慶應義塾高校(センバツにも出場)の対決となりました。試合は延長に入り、相模の先発は初回から飛ばしていましたのでばててしまい、二番手もアップアップでしたので遂にショートの大田がマウンドに上がります。NHKの表示(地区予選決勝は関東地区ではNHKの放映があります。)では145キロ以上出ていましたが、所詮は野手のボールです。ランナーを置いて二番サード福富が右中間に三塁打を放って1点を先行、この後三番(だったと思いますが四番かもしれません)セカンド山崎がライトスタンドにツーランを叩き込んで試合を決めました。

 慶應高校が慶應商工時代以来二度目の全国優勝をするとしたらこの年を置いてチャンスは無かったと思います。力道山の孫として有名になった左の田村、中学時代から注目されていた右の只野を擁し、山崎を中心とする打線も切れ目が無く期待をしていたのですが確かベストエイト止まりでした。


 と言うことで、塾を取り巻く野球事情について簡単に述べてみようと思います。お気づきの方も多いかもしれませんが、現在、慶應義塾大学硬式野球部のレギュラーの多くは慶應義塾高校出身者で占められています。塾高が「一芸」と称する野球特待生を取りだしてから10年以上がたちます。中林を擁して久しぶりに甲子園に出場したのが5年ほど前のことです。2008年はベンチ入り全員が一芸(特待生)であったと聞いています(本当かなぁ)。

 従来、慶應高校硬式野球部は慶應中等部出身者、軟式は慶應普通部出身者という住み分けができていました。稀に私のような気まぐれな外部入学者が軟式に入ったりする例外もありましたが。ところが硬式が一芸と称する野球特待生を取り始めてからこの構図は崩れます。中等部出身者が硬式ではレギュラーになれなくなり、軟式に流れます。おかげで軟式が強くなりました。軟式出身者は大学では準硬式に進みます。我々の時代では塾高硬式から大学硬式に行けないクラスは「丘の上」という硬式同好会に行っていたのですが、最近では準硬式にも流れてきています。おかげ様で現在準硬式は黄金時代を迎えています。

 恐らく塾関係者はこれをいい傾向であると勘違いしていると思います。心ある塾OB(私のような!)はこの傾向を苦々しく思っています。このような状況になれば、私のような中学時代は受験勉強しかしていなかった輩にチャンスが巡ってくることは極めて難しいでしょう。

 東京国際大学は優勝候補慶應に見事に立ち向かっていきました。かつての慶應義塾大学が早・法・明に立ち向かっていったような気概が感じられました。塾関係者は本日の準決勝をどう見ていたのでしょうか。慶應義塾体育会に連綿と流れる小泉信三の「練習は不可能を可能にする」は、素質のないものが素質の無さを恐れずに立ち向かっていく精神を言っているのだと私は理解しています。

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