2011年5月4日水曜日

宇野庄治記者

 読売新聞の宇野庄治記者の論評はたびたび引用させていただいております。宇野記者は苅田久徳の自伝「天才内野手の誕生」にも登場しています。同著には苅田の記憶違いのおかげで当ブログも振り回されていますが貴重な宇野記者のプロフィールが紹介されています(以前にも一度書きましたが。2011年3月2日付け「13年春 講評」参照)。1903年明石市生まれですから昭和13年当時は35歳、現場の記者としては経験も積んできて全盛期と言えるでしょう。というよりそのタイミングにプロ野球の長期リーグ戦が始まって記事をバンバン書いてきて腕をあげたと見る方が適切かもしれません。旧制三高時代は野球とラグビーで活躍、京都大学時代は名ラガーとして鳴らしたと紹介されています。のちの読売巨人軍代表。そういえば「巨人の宇野代表」には聞き覚えがあります。「巨人 宇野代表」でググってみれば王獲得時のエピソード等が検索できます。


 昨日のジャイアンツvsタイガース3回戦の論評ですが「巨人軍は三原が安打に出た1回強気に出て併殺に退けられたのは好打順からして無理もないが中島、川上と安打に始まった2回白石に打たせ景浦の巧守に阻まれた策は勿論勝算あっての事だろうが冒険性を伴っていたことは否めない。若し打者が伊藤であれば当然打たすべき所であるが白石に送らせ、まず1点をめざすのが相手が相手だけに手堅い攻め方といってよかろう。これに反してタ軍の攻撃は正にその逆をゆくものであった。即ち皆川が無死四球に出た5回西村に送らせたバントは白石の落球によって芽を出し更にトップの山口もバントするなど飽くまで1点を先んずるために最も安全且つ確実な手を用いた。」と言うものです。


 当ブログは藤本定義監督の作戦を否定するものではありません。読売新聞の記者がここまで客観的な論評をしていることを評価するものです。


 昨今のように御用記事が氾濫する世では、読者がきちんと客観的事実を選択できる眼を養う以外に防衛策はありません。これはスポーツジャーナリズムに限らず一般報道にもあてはまるでしょう。月刊誌「選択」五月号の巻頭インタビューではマーティン・ファクラー ニューヨーク・タイムズ東京支局長の「震災報道」に対する見解が紹介されています。要約すると「日本のジャーナリズムは受け身のジャーナリズム。記者が記者クラブの席に座り、情報源とお酒を飲んで親しくなってスクープをもらい、それで賞になる。米国では人がやらないことを自ら調査・報道し、それが評価される。日本では、下りてくる情報の中身を精査する方法を知らないし、知ろうともしていないのではないか。」原因は「読者層も含めた市民参加型社会の欠如にほかならない。日本の大メディアの問題は、東電や政府など取材対象者との関係が近すぎることだ。メディア自体がエリート層の一部になっているから、政府と敵対関係になれない社会だ。」と論破している。「大マスコミが似たような情報を垂れ流している姿に市民側は辟易としており、不信感さえ募らせているようにみえる。憂慮すべき状況だ。」


 因みにファクラー氏はカリフォルニア大学バークレー校大学院修了後、96年からブルームバーグ東京支局記者。AP通信社ニューヨーク本社、東京支社、北京支社を経て上海支局長。05年ニューヨーク・タイムズ東京支局記者、09年から同支局長という経歴。生粋の知日派である。


 なお、届いたばかりの「選択」誌の記事を引用、掲載させていただきました。問題があるようでしたら削除させていただきます。

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