2010年12月25日土曜日

13年春 ジャイアンツvs金鯱 2回戦

5月15日 (日) 鳴海


1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
2 0 0 1 3 0 0 0 1 7 ジャイアンツ 6勝2敗 0.750 スタルヒン
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 金鯱             2勝6敗 0.250 古谷倉之助 中山正嘉


勝利投手 スタルヒン    4勝0敗
敗戦投手 古谷倉之助  0勝4敗


二塁打 (ジ)水原
三塁打 (ジ)千葉2


猛牛伝説の始まり


 ジャイアンツは一番センターに結果の出ない三田政夫に代えて野村高義を起用、しかし野村も結果がついてこず、徐々に呉波の出番が増えていくことになる。吉原正喜は二度目のスタメン落ちで田代須恵雄がマスクを被る。

 ジャイアンツは初回、先頭の野村が四球で出塁、白石敏男の遊ゴロでランナーが入れ替わり、水原茂の右中間二塁打で白石が還って1点を先制、中島治康が右前タイムリーで続き2-0とする。

 ジャイアンツは4回、この回先頭の千葉茂が中越えに三塁打、ワイルドピッチでホームに還り3-0。更に5回、野村四球、白石三塁内野安打、水原の三ゴロで野村は三封、ワイルドピッチで一死二三塁、中島は投ゴロに倒れて二死二三塁、伊藤健太郎が四球を選んで二死満塁、ここで千葉が又もや中越えに三塁打を放ち三者生還して6-0とする。後年「猛牛」と呼ばれることとなる千葉茂にとって、猛牛伝説の始まりとなる活躍であった。ジャイアンツは9回にも一死満塁から中島の二ゴロの間に1点を追加して7-0で快勝、鳴海シリーズを締める。

 スタルヒンは初回に江口行男に右前打を許して以降は快調なピッチングを続け2回~8回を2四球1死球の無安打ピッチング、9回に江口にこの日2本目のヒットを右前に許すが堂々の完封で今季4勝目をあげる。


 昭和9年、読売新聞がベーブ・ルース等を招聘して全日本との試合が全国各地で行われた。鳴海球場でも11月22、23日に二試合が行われたが、読売はこの興行権を新愛知新聞に譲っている。正力松太郎はすでにプロ野球リーグ戦の構想を練っており、名古屋地区にもプロ球団を誕生させるためにプロ野球興行の美味しさを新愛知新聞にも味あわせる作戦を敢行した。作戦は成功、公称二万人収容の鳴海球場(当時は内野までしかスタンドが無かった。)には三万人の観衆が詰めかけて興行的に大成功を収めた。これに味をしめて新愛知新聞は名古屋軍を結成することとなり、ライバル名古屋新聞も金鯱軍を結成し、中部地区に2球団が誕生することとなったのである。

 「野球界」昭和10年1月号には「東海地区は全国屈指の野球黄金の地の事とてこの22日の一戦には三万ファンに囲まれて開始された」と記されている。二万人しか入らない球場に三万人を集めたらどうすれば良いのか、スタンドの切れた内野から外野ににかけてロープを張って即席の立見席にしたか簡易なスタンドを造ったのであろう。でなければ二万人収容の球場に三万人を集めることはできない。

 鳴海球場は甲子園球場並みの広さを誇り、昭和9年の全米軍も甲子園同様鳴海球場ではホームランを打っていません。千葉茂の2本の三塁打も鳴海球場ならではのものでしょう。この二日間で後楽園球場では7本のホームランが出ていますが鳴海球場は当然0本でした。


*この写真は本邦初公開となります。当時の報道写真にベーブ・ルース、ジミー・フォックス、ルー・ゲーリッグのサインが入れられ関係者に配られたものです。元新愛知新聞社の関係者から出てきたものなので、恐らく鳴海球場での試合前に撮影されたものと推測できます。




*当時の報道写真の証である「YC」の刻印が右下にあります。





*後方に見えるのが立見席に詰めかけた観衆ではないかと思われます。















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