2010年3月24日水曜日

解読




 

 当ブログで解読していくこととなるスコアブックのサンプルを掲載させていただきましたが、現代のスコアブックを見慣れている方には多少違和感があると思います。私がスコアブックのつけ方を習ったのは高校入学時の1974年のことですが、当時でも現代で使われている様式でありましたので、最初この様式を見たときは解読できるか不安でしたが、昭和32年発行の広瀬謙三氏著「野球スコアのつけ方」を教科書とすることにより、解読作業に目途がついたことから当ブログを開始することを思いつきました。
 今後アップしていく試合経過は、写真のスコアブックからワンプレー毎に起こしていく手作業となりますので、間違いも起こりうるかと思います。また、解読技術未熟ゆえの勘違いも起こりうるかと思いますが何とぞ寛容に見守っていただければと存じます。
 現段階において、解読作業は先行して進めており、約50試合程作業が終了しております。以下に、ここまでで気付いた留意点等を記載させていただきます。


1.犠牲フライ(犠飛)の取扱いについて
 ご存知のとおり、犠飛の取扱いについては、年度毎に異なっております。上添サンプルにおいて、タイガース3回の攻撃で山口政信は左翼フライ(f7)において2死となったと記載されており、写真では分かりませんが打数1がカウントされていることから犠牲フライとして記録されておりません。しかしこの時、四球(BB)で出塁した一番打者の藤井勇は二番打者藤村富美男の左中間二塁打により三塁に進んでおり(左下角にbとありますが、bは二番打者のことで二番打者により三塁(左下角)に進塁したことを表しています。)、四番打者(d)山口によりホームに還った(右下角d)ことを表しております。山口にはこの打席により打点1が記録されており、藤井の得点は自責点によるもの(得点を表す丸印の中にE(アーンド・ラン=自責点)が記載されている場合は自責点付きの得点を表します。)であることから、左翼手からの返球が逸れたりして藤井が生還したのではなく、山口の飛球により生還したことを表しており、現行ルールにおいては犠牲フライが記録されます。昭和12年のかなり以前においては犠飛が記録されていた時代があったようですが、昭和12年~13年は犠飛は記録されておりません(昭和14、15年には記録されましたが、その後10年ほどは記録されていないようです。)。当ブログでは、現行ルールに合わせて、犠牲フライであることが明らかである場合(上記の例のように打者に打点が記録されており走者が自責点付きの得点を記録している場合(もちろん犠飛との間にエラーが挟まっており自責点が記録されない場合もありますが))は犠飛として取り扱うこととさせていただきますのでご了承願います。


2.勝利投手、敗戦投手について
 昭和12年当時は、先発投手が5回を投球完了していない場合でも勝利投手として記録されているケースがあります。昭和36年に稲尾が42勝したときは、スタルヒンの昭和14年の勝利数は40勝とされておりました。昭和14年当時はスタルヒンの記録は42勝でしたが終戦後、戦前の記録の見直しが行われてスタルヒンの記録は40勝に訂正されました。稲尾の42勝により、改めてスタルヒンの記録が議論の的となり、当時のコミッショナー裁定により、記録された当時の記録を尊重することとなり、スタルヒンの勝利数は正式に42勝と認められたことから、現在においても年間最多勝記録はスタルヒンと稲尾のものとなっております。
 当ブログにおいては、気がついた範囲において現行ルールと齟齬がある場合、「現行ルールでは××投手に勝利が記録されるが」というような記述はさせていただきますが、当時のルールを尊重し、これをもって記録の訂正を求めるようなことはいたしませんのご了承願います。


3.セーブについて
 現行ルールに照らしてセーブが記録されるケースはセーブの記録を記載させていただきますのでご了承願います。もちろん当時はセーブの記録はありませんでした。


4.その他
 当ブログでは、週間MVP、殊勲賞、敢闘賞、技能賞、月間(または期毎)MVP等、沢村賞等、年間MVP等の表彰をさせていただきますが、これはあくまで私の主観に基づき私独自で制定するものであり、公式記録と一切関係がありませんのでご了承願います。
 今後気がついた留意点は、順次記載させていただく場合がございますのでご了承願います。

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