2010年3月31日水曜日

12年春 名古屋vsイーグルス 1回戦

4月1日(木)上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 1 0 0 2 1 3 6 0 13  名古屋   1勝2敗 0.333 森井茂-田中実  
0 0 3 3 1 0 0 3 0 10  イーグルス 0勝3敗 0.000 畑福俊英-石井秋雄

勝利投手 田中実  1勝1敗
敗戦投手 石井秋雄 0勝1敗

二塁打 (名)前田 (イ)筒井

田中実、流れを引き寄せる好リリーフ 
 名古屋は2回、前田喜代士右中間二塁打、森井茂左前に落とし1点を先制。1 、2回三者凡退のイーグルスは3回、先頭は七番ピッチャー畑福俊英。開幕カードでは六番に起用されながら4打数無安打2三振に終わったことに発奮したか、相手ピッチャー森井の先制タイムリーに刺激されたか、はたまた昨晩の日本酒が効いたかは定かではないが右前にクリーンヒット。山本博愛四球後、筒井良武三ゴロで二、三塁とし、トップ野村実の中前2点タイムリーで逆転。中根之、杉田屋守連続死球からサム高橋吉雄三ゴロの間に1点追加し3-1とリード。4回にも寺内一隆右前、太田健一中前打を畑福が三塁前にバントで送り一死二三塁、山本の三ゴロをサード岩田バックホームするが間に合わず野選となり4-1、筒井の三塁線を破る2点タイムリー二塁打で森井をKOするなど3点を追加し6-1とリードを広げる。しかしここでリリーフに立った田中実が野村三振、中根右飛と後続を断ち試合の流れを変えることとなる。
 名古屋は5回、三浦敬一、桝嘉一連続四球後、岩田次男左翼線タイムリー、白木一二右翼線タイムリーで2点を返し6-3。イーグルスは5回裏、一死後高橋が中前打、二盗の際捕手の送球が逸れ三進、寺内の三前内野安打で7-3とする。太田二失で一、二塁、畑福の打球は強烈に三塁線を襲うがサード高橋が逆シングルで好捕、そのままベースを踏んで一塁に送球、畑福も懸命に走るが間一髪アウトとなりゲッツー。
 名古屋は6回、捕手登録ながらセカンドを守るこの回先頭の岡本利三が四球で出塁、一死後三浦敏一中前打で一二塁、桝の遊ゴロは6-4-3と転送されるが桝の足が一瞬早く一塁セーフ、この時岡本が三塁を蹴ってホームに突進、虚を突かれたファースト太田がバックホームするがこれが逸れてホームイン、岡本の好走塁で1点返して7-4とする。そして7回、小島茂男の遊ゴロを山本がはじき無死一塁、白木四球で投・打に奮闘した畑福力尽き石井秋雄にスイッチ、捕逸で二三塁となり前田は三振、岡本四球で一死満塁。田中実を遊ゴロに打ち取ったかに見えたがこれを山本がはじき球が転々とする間に二者が還り一点差、なおも一死二三塁、三浦中犠飛で遂に7-7と同点となる。田中が6、7回を無失点で切り抜けると名古屋は8回、岩田の三前内野安打を小島が送り白木が左前に決勝タイムリー、その後も前田左前、岡本三打席連続四球を選び、田中実中前2点タイムリー、三浦右前ポテンタイムリー、小坂三郎右翼線2点タイムリーで6点をあげ試合を決める。粘るイーグルスは8回、太田、石井、筒井、野村、中根と5安打を集め3点を返すもここまで。
 イーグルスは九番筒井良武が3安打3打点、一番野村実が2安打4打点の活躍を見せるも、二番中根之は5打席目に漸く1安打、、三番杉田屋守は4打数無安打と中軸とのつながりを欠いたことが敗因。一方名古屋は好リリーフを見せた田中実が流れを引き寄せ、打っても2打点の活躍、職業野球入り初勝利を飾り開幕2連敗でストップ。

2010年3月30日火曜日

12年春 第1節 週間MVP

週間MVP

 セネタース 苅田久徳 1 

 打っては8打数3安打、守っては開幕緒戦3併殺(5-4-3、6-4-3・2回)で百万ドル内野健在を示す。

 数字の上では6打数4安打4四死球、打率.667、出塁率.800のジャイアンツの核弾頭呉波が最有力候補であったが、当ブログの表彰基準は、数字に表れないプレーをスコアブックに記録されている事実関係から拾っていくことを基本線としていることから、苅田に譲ってもらうこととする。呉ファンの皆さん申し訳ございません。


 ジャイアンツ 澤村栄治 1

 今季初登板で4安打6三振2四球の完封勝利。今節先発8投手中唯一の完封勝利。


殊勲賞

 セネタース 家村相太郎 1

 打順は八番ながら7打数2安打3打点、二塁打・三塁打各一本。第二戦の満塁走者一掃左中間三塁打が光る。

敢闘賞

 阪急 笠松実 1

  対大東京2回戦の試合の流れを引き寄せる好リリーフ、投打にわたる活躍が光る。


技能賞

 名古屋 大沢清 1

 代打で2打数2安打1打点。共に得意の右打ちで一二塁間安打と右前ライナーのクリーンヒット。
 国学院大学から今期入団、登録されたのは開幕日の3月26日という慌しさにもかかわらず持ち味を発揮。

2010年3月29日月曜日

12年春 大東京vs阪急  2回戦

3月29日(月)上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
3 5 0 1 0 0 0 0 3 12  大東京 0勝2敗 0.000 大友一明-桜井七之助 
0 4 0 3 2 1 2 5 X 17  阪急   2勝0敗 1.000 重松通雄-森弘太郎-笠松実


勝利投手 笠松実 1勝0敗
敗戦投手 桜井七之助 0勝1敗

二塁打 (大)大友、水谷、漆原、筒井 (阪)黒田、上田、山下好
三塁打 (大)水谷 (阪)山田

本塁打 (大)坪内1

壮絶な打撃戦
 大東京小西徳郎監督の檄が効いたか、前日の凡戦と打って変わって強打を誇る両チームによる壮絶な打ち合いとなった。大東京は初回、先頭の鬼頭数雄が左前打、二番ピッチャー大友一明が左中間を破り鬼頭が快足を飛ばして先制。水谷則一の四球後中村三郎の三ゴロは5-4-3のゲッツーとなるが、続く坪内道則が右翼に本塁打してこの回3点。2回も漆原進左前打、筒井隆雄四球、柳沢騰市二塁内野安打で4点目。森弘太郎がリリーフに出るが水谷の右中間二塁打、中村左前打等でこの回5点をあげ8-0とリードを広げる。その裏阪急は黒田健吾の左前打、山田伝の中前打に坪内の落球等で4点を返し8-4。大東京は4回、三塁打で出塁した水谷が坪内の二ゴロの間に還り9-4。4回裏阪急は山下実左前打、山下好一中前打、大友降りてセカンドに入り桜井七之助に代わるが上田藤夫左翼越え二塁打、黒田中堅右へ2点タイムリーと4連打で3点をあげ9-7。大東京は5回、筒井左前打、3回から先発マスクの浅原直人に代わってマスクを被る藤波光雄が一二塁間を破り鬼頭四球で一死満塁のチャンスを作るが、阪急はここで森から三番手笠松実にスイッチ、笠松は大友を一邪飛、当たっている水谷を右翼フライに打ち取り見事な火消し。ここがこの壮絶な打ち合いのターニングポイントとなる。
 5回裏阪急は一死後トップの西村正夫がセーフティバントを決めすかさず二盗。ヘソ伝が左中間三塁打して一点差、山下実四球後二盗を試みるも刺されて二死、しかし山下好一の左翼二塁打でついに同点に追いつき好リリーフの笠松に応える。こうなればペースは阪急のもの、6回裏黒田の三ゴロをファースト中村が落球し無死一塁。宇野錦次は投前送りバントを決め一死二塁。ここで代打宮武三郎が登場、しかし遊ゴロに倒れこの間に黒田は三進して二死三塁。九番笠松実の執念の一打は魂が乗り移ったかのように右前に落ち、遂に10-9と逆転に成功。阪急は7回、山下好一と宇野のタイムリーで2点、8回にもヘソ伝、山下実、上田、宇野、倉本信護と安打を連ねて5点を加え、17-9とする。大東京は9回、5本の安打を集めて3点を返すも17A対12で阪急が激戦を制し、投打に大活躍の笠松が今季初勝利を飾る。大東京18安打、阪急は毎回の19安打、ヘソ伝こと山田伝は4安打の活躍。試合開始2時55分終了5時10分、2時間15分の大熱戦に1,714人の観衆は酔いしれる。主審二出川、塁審川久保、杉村各氏もご苦労さん。

12年春 ジャイアンツvs金鯱 2回戦

3月29日(月)上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
4 0 2 0 0 1 0 0 0 7 ジャイアンツ 2勝0敗 1.000  前川八郎 
0 0 0 0 0 1 0 1 0 2  金鯱     0勝2敗 0.000 松元三彦-平川喜代美

勝利投手 前川八郎 1勝0敗
敗戦投手 松元三彦 0勝1敗

二塁打 (金)松元、濃人
三塁打 (金)島

前川八郎巧投、金鯱打線を手玉
 ジャイアンツは初回、呉波、水原茂が連続四球。筒井修が三前に送りバントを決め中島治康四球で満塁から伊藤健太郎が押出し四球を選び先制。さらに白石敏男の中前2点タイムリーと永澤富士雄の右犠飛で4点を先取。3回には中島の右中間三塁打を伊藤の右犠飛で還し、白石、内堀保、前川八郎と3四球後呉の中堅左へのタイムリーで2点を追加。前川は大量リードに守られて5回まで金鯱打線を松元の二塁打1本に抑える。金鯱は6回、濃人渉が左前にクリーンヒット、島秀之助の遊ゴロで二封、前川の一塁牽制悪送球の間に島は快足を飛ばして三塁へ、江口行男四球で一死一三塁となる。ここで黒澤俊夫の打球は一ゴロ、ファースト永澤富士雄は一塁ベースを踏み二塁へ送球し、ベースカバーに入った白石が江口にタッチし3アウト。白石のタッチより早く三走島がホームインして金鯱1点を返す。点差を考えたベテラン永澤の落ち着いたプレーが光る。金鯱は8回も中前安打の濃人を島の左中間三塁打で還し1点を返すも万事休す。前川は4安打2三振で完投勝利。

 平成22年3月16日、前川八郎氏が97歳でお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。当ブログの登場人物は戦争で亡くなられた方を含め、大半の方が物故されております。当ブログでお伝えできることはスコアブックに記録された事実をお伝えすることのみではありますが、今日の野球界の隆盛の礎となられた方々に敬意を表しつつ解読作業を進めていきたいと思います。

2010年3月28日日曜日

12年春 金鯱vsジャイアンツ 1回戦

3月28日(日)上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0  金鯱      0勝1敗 0.000 古谷倉之助
0 0 0 0 2 0 1 0 X 3 ジャイアンツ   1勝0敗 1.000 澤村栄治


勝利投手 澤村栄治   1勝0敗
敗戦投手 古谷倉之助 0勝1敗

二塁打 (金)古谷 (ジ)水原

澤村栄治金鯱打線をシャットアウト
 金鯱は初回二死後、黒澤俊夫四球、小林利蔵中前打、五番に入る昨年のホームラン王、打点王、打率二位の準三冠王にして先発投手の古谷倉之助四球と立ち上がり制球の定まらない澤村栄治を攻めるも相原輝夫の遊ゴロを白石敏男が難なく捌き先制ならず。澤村は前半抑えめの投球で4回佐々木常助から今季初奪三振。ジャイアンツは5回、先頭の内堀保が四球で出塁、続く澤村の打球はフラフラと左前に落ちる。トップに返り呉波は自らも生きようとするセーフティ気味のバント、これが見事に決まり無死満塁。水原の三塁内野安打の間に内堀、澤村が生還し2点を先取。尻上がりに調子を上げてきた澤村は5回、8回には全日本時代の先輩江口行男から二打席連続三振。6回の打席で死球を受け心て配されたが7回にも佐々木、川上良作から連続三振を奪う。ジャイアンツは7回伊藤健太郎の押出し四球でダメ押し。澤村は最後代打で職業野球入り初登場した中山正嘉から6個目の三振を奪い散発4安打2四球で今季初先発初勝利を完封で飾り、4,885人の観衆の期待に応える。
 注目の澤村の投球内容を分析してみよう。27のアウトのうち、三振は6個、今季初戦ということで抑えめの投球であったか。しかし内野フライが8個でうちファウルフライが2個、川上良作の第1打席のセカンドライナーは痛烈な当たりだったのか詰まったハーフライナーであったのかは判然としないが、第2打席三飛、第3打席三振の結果からみるとハーフライナーの可能性が高いか、外野フライ7個、内野ゴロは僅かに5個とストレートの伸びを想像させる結果となっている。更に、走者を出してからのピッチングが圧巻、初回は上記のとおり、2回は三者凡退、3回一死後江口に右前にライナーで運ばれるが黒澤左飛、小林中飛と中軸を力で抑える。4回先頭の古谷に右越二塁打を浴びると相原輝夫はピッチャーフライ、恐らく渾身のストレートでどん詰まりの小飛球に打ち取ったのではないか、佐々木常助三振、川上三飛と前に飛ばさせない。5回~8回は三者凡退、この間三振4個、内野飛球3個、外野飛球3個、内野ゴロ2個、9回一死後小林利蔵に二本目の右前打を打たれるがこれは飛球による安打と記録されておりポテンの可能性もある。強打の古谷中飛、最後は代打中山正嘉を三振で締める。全日本時代の先輩江口に第2打席でヒットを許すや第3、第4打席を連続三振に打ち取るなど、勝負師に必須の負けん気の強さもなかなかのもの。

12年春 阪急vs大東京 1回戦

3月28日(日)上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 2 0 4 4 2 1 0 1 14  阪急  1勝0敗 1.000 石田光彦

0 0 0 0 0 0 0 0 1 1   大東京 0勝1敗 0.000 遠藤忠二郎-近藤久-桜井七之助

勝利投手 石田光彦 1勝0敗
敗戦投手 近藤久  0勝1敗

二塁打 (阪)山下実
本塁打 (阪)山下実 1

阪急ミスに乗じて加点
 阪急は2回、山下好一が右前打で出塁、上田藤夫の右飛をライト水谷則一が失する間に山下好一生還、倉本信護が中前に弾き返し2点を先取。更に4回、先頭の山下実が右超えに今季初本塁打を放ち3点目。第一神港商業時代から長距離砲として鳴らし、慶応義塾大学時代は長打力こそ宮武三郎に譲ったものの強打更に磨きをかけ、ついた渾名は「和製ベーブ」、怪物君をもじって「怪ちゃん」と呼ばれる。山下好一、上田連続四球後宇野錦次の右前打で無死満塁、一死後島本義文が四球を選び押出し。石田光彦の二ゴロはセカンド大友一明からショート筒井隆雄に送球されて一走島本は二封、筒井はゲッツーを狙ってファーストに転送するも打者走者石田は全力疾走で駆け抜け一塁セーフ、この間に三走上田に続いて二走宇野もホームに還る好走塁を見せてこの回4点、。石田は力走の甲斐あってセカンドゴロで二打点を記録する。
 阪急は5回、5四死球に遊失等で4点をあげ10-0。その後も大東京守備陣の乱れに乗じて加点し14点をあげる。大東京投手陣は与四死球12、更に守備陣は8失策と大乱調。大東京投手陣の自責点は4点、阪急の打点は7点と締まらない試合。宇野の好走塁と石田の十字架投法が観客を沸かす。
 大東京は14点をリードされた9回裏、水谷、中村三郎の連続安打で無死一二塁、一死後藤浪光雄四球で一死満塁、漆原進の三ゴロの間に水谷が還り一矢を報いる。この粘りが明日につながるか。

2010年3月27日土曜日

12年春 イーグルスvsタイガース  2回戦

3月27日(土)上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 0 1 1 0 0 0 0 0 2  イーグルス 0勝2敗 0.000 古川正男-石井秋雄
5 3 0 0 0 0 0 1 X 9  タイガース 2勝0敗 1.000 西村幸生-菊矢吉男

勝利投手 西村幸生 1勝0敗
敗戦投手 古川正男 0勝1敗
セーブ   菊矢吉男 1S

二塁打 (タ)塚本

西村幸生デビュー戦を飾る
 タイガースは初回、トップ塚本博睦中前打後すかさず二盗、奈良友夫、玉井栄連続四球で満塁、更に山口政信、伊賀上良平が連続押出し四球。タイガースからイーグルスに移籍した先発古川正男は一死も取れずに降板、石井秋雄に交代。岡田宗芳の遊ゴロで玉井本封、門前真佐人右犠飛、ライト中根之の送球をファースト太田健一が逸らす間に伊賀上も生還、石井のワイルドピッチで岡田も生還し、結局5点を先取。更に2回、本堂保次四球、塚本左中間二塁打で無死二三塁、奈良が三遊間を破り二者生還。玉井遊失後山口は4-6-3のゲッツーに倒れるが、伊賀上の三ゴロをサード野村実が悪送球し8-0。
 職業野球入り初登板初先発の西村幸生は、初回は中根に四球を与えたのみで四番サム高橋吉雄から初奪三振。2回は太田健一から2個目の三振を奪うなど三者凡退。3回は山本博愛に四球、石井に死球、トップの野村に二遊間を破られ初被安打、中根に一塁前バントヒットを決められ初失点。しかし杉田屋守を右飛、高橋三ゴロ、寺内一隆を投ゴロに打ち取り3回を2安打2三振1失点で降板、現行ルールではリリーフの菊矢が勝利投手となるがまずは目出度く初勝利を飾る。この当時は、勝利投手、敗戦投手の記録は記録者の判断に委ねられており、西村の降板は試合が決したことによると判断されたものと考えられる。逆に、当時はセーブの記録は無かったが現行ルールでは菊矢にセーブが記録される。

12年春 セネタースvs名古屋 2回戦

3月27日 (土) 上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 5 0 0 2 0 0 0 0 7  セネタース 2勝0敗 1.000 浅岡三郎

0 0 0 0 0 1 0 2 0 3 名古屋    0勝2敗 0.000 田中実

勝利投手 浅岡三郎 1勝0敗
敗戦投手 田中実   0勝1敗

二塁打 (セ)尾茂田 (名)岡本
三塁打 (セ)家村

ライパチ君の意地
 セネタースは2回、尾茂田叶が遊失で出塁すると中村民雄が二遊間を破り、綿貫惣司四球、大貫賢四球押出しで先制。尚も無死満塁のチャンスに八番家村相太郎が走者一掃の左中間三塁打で4-0。浅岡三郎の三ゴロは家村動けず一死三塁、中村信の三ゴロに家村猛然とホームへ、サード岩田次男のバックホーム間に合わず野選となりこの回5点を先制する。5回も一死後、苅田久徳遊失、尾茂田の中越二塁打で1点追加、中村民中前打で一死一三塁、ここでダブルスチールが見事に決まり7-0。名古屋は6回、先頭の田中実が四球で出塁、三浦敏一の三ゴロで田中二封、苅田が併殺を狙って一塁送球するがこれが悪送球となり三浦は二塁へ。志手清彦の三ゴロをサード横沢七郎がはじく間に三浦が還り1点を返す。8回も三浦遊失後6回からセカンドに入った岡本利三が三塁線を破る二塁打で二三塁、ここで代打大沢清が得意の右打ちを見せ右前に痛烈な2点タイムリーを放ちセネタース守備陣の乱れをついて反撃するが時すでに遅し。ショート芳賀直一の2つのエラーが失点に直結し開幕2連敗。一方セネタースは前日の野口明に続き浅岡も完投勝利で開幕2連勝するが、中村信3個、横沢2個、苅田1個、と自慢の内野陣の計6個のエラーが心配。
 この試合を決したのは2回のセネタースの攻撃、八番ライト家村相太郎の満塁走者一掃の三塁打が全てであった。







2010年3月26日金曜日

12年春 名古屋vsセネタース 1回戦

3月26日( 金) 上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9
0 0 3 0 0 0 0 0 0 3 名古屋   0勝1敗 0.000 森井茂
0 1 0 1 2 1 0 0 X 5 セネタース 1勝0敗 1.000 野口明


勝利投手 野口明 1勝0敗
敗戦投手 森井茂 0勝1敗

二塁打 (名)小島 (セ)中村民2、綿貫、大貫、家村

セネタース百万ドル内野健在
 名古屋は初回、小坂三郎三振後、志手清彦が右前にライナーで運び一死一塁。桝嘉一の当たりは遊ゴロとなりお誂え向けのゲッツーコース。ところがショート中村信一からの送球を何と名手苅田久徳が落球、開幕緒戦の緊張感がヒシヒシと伝わってくる。しかし流石はセネタース守備陣、続く小島茂男の三ゴロは横沢七郎ー苅田ー綿貫惣司と渡り5-4-3のゲッツー。サード高橋輝男が兵役に取られ百万ドル内野健在なりしか不安視されたが、昭和11年度併殺数ダントツ1位の守備陣健在を示す。セネタースは2回、五番中村民雄の左中間二塁打、綿貫四球後、大貫賢の遊ゴロを芳賀直一が失する間に中村民が還り先制。名古屋は3回、森井の三塁フライをサード横沢七が落球、トップ小坂中前打、三番桝中前打で満塁のチャンスに四番小島が走者一掃の右中間二塁打を放ち3-1と逆転。
 名古屋は4回、一死後芳賀が汚名挽回の左前打で出塁、続く三浦敏一の当たりは遊ゴロ、中村信から苅田へ、苅田得意のノールックスローでゲッツー。セネタースはその裏、中村民、綿貫の連続二塁打で1点返すと5回、内野安打の中村信を二塁に置き三番苅田が中前タイムリーで同点、続く尾茂田叶が右中間に三塁打して逆転に成功。6回にも八番家村相太郎の右翼二塁打を野口明の右前打で還して加点。野口明は4回以降名古屋打線を無得点に抑えて8安打1四球7三振で完投。最後は中村信のエラーが出るも、森井の遊ゴロをこの日二度目の6-4-3のダブルプレーで試合終了。中村信-苅田-綿貫の当代随一の併殺トリオのプレーにヤンヤの喝采。

12年春 タイガースvsイーグルス 1回戦

3月26日 (金) 上井草

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
0 0 4 0 0 2 0 0 1 7  タイガース 1勝0敗 1.000 景浦将-青木正一-若林忠志  
0 0 0 0 1 0 0 0 0 1  イーグルス 0勝1敗 0.000 畑福俊英

勝利投手 景浦将  1勝0敗 
敗戦投手 畑福俊英 0勝1敗
セーブ  若林忠志 1S

二塁打 (タ)藤村、伊賀上、岡田2


タイガース開幕戦に圧勝


  昭和12年春季リーグ戦は強風晴天の下、上井草球場に1,712人の観衆を集めて開幕した。試合に先立って、タイガース松木謙治郎主将、イーグルス杉田屋守主将による国旗掲揚式が行われた。日章旗たなびく中、午後1時プレイボール。

 1回表タイガースの攻撃、マウンド上のイーグルス先発畑福俊英は今季ジャイアンツから移籍、心なしか緊張した表情、先頭の藤井勇を遊飛に打ち取るが藤村富美男、山口政信に四球を与える。しかし後続を断ちこの回0点。その裏、タイガース先発の景浦将も開幕緒戦の緊張からかいきなり寺内一隆、中根之に連続四球、杉田屋投前犠打後、四番サム高橋吉雄にも四球を与え心配されるが、太田健一三振、五番に入る畑福三ゴロでこちらも0点。

 タイガースは3回、一死後トップの藤井四球、藤村左中間二塁打、御園生崇男四球で満塁から山口の左犠飛で先制。景浦が中前に落として2点を追加、さらに伊賀上良平右前打の後岡田宗芳が右翼線に二塁打を放ち計4点をあげて主導権を握る。4回も無死から九番松木が右前に痛打を放ちチャンス到来。トップに返り藤井のカウントはツースリーとなり一走松木はスタート、藤井の当たりは左翼への痛烈なライナー、しかしこれをレフト杉田屋が好捕して一塁へ大返球、松木戻れず併殺となる。5回も一死から山口、景浦の連続四球でチャンスを掴むが伊賀上の中前に抜けるかという痛烈なライナーをセカンド高橋が横っ飛びで好捕、二塁ベースカバーに入ったショート山本博愛にトスして山口戻れずゲッツー、イーグルスの好守が光る。

 タイガースの先発景浦はイーグルス打線を2安打無得点に抑えるが5四球とやや荒れ模様。5回から景浦ライトに退きライト山口がレフトに回りレフト藤井はファーストヘ入る。ファーストの松木が退き二番手投手に青木正一を投入。イーグルスは代わったばかりの青木から中根一二塁間、杉田屋三遊間安打後、高橋が中前に弾き返して1点を返し青木をKO。しかし急遽リリーフに立った若林忠志に後続を断たれる。タイガースベンチは若い青木に経験を積ませる意味も込めて送り込んだが老練若林も準備を怠っていなかったのであろう。

 タイガースは6回、一死から門前真佐人が二遊間を破り若林の遊ゴロを山本がはじき一二塁、藤井の二ゴロで若林二封、藤村死球で満塁。ここで畑福がワイルドピッチ、門前生還する。更に御園生が一二塁間を破りこの回2点、9回も岡田のこの日2本目のタイムリー二塁打で1点追加。

 5回途中からリリーフの若林は9回までイーグルス打線を3安打6三振無得点に抑えタイガースが7対1で快勝、緒戦を飾る。景浦は4回で降板しており現行ルールでは若林が勝利投手となるが幸先良く今季1勝目。この当時は、勝利投手、敗戦投手の記録は記録者の判断に委ねられるところがあり、景浦の降板は試合が決したことによると判断されたものと考えられる。




 

2010年3月25日木曜日

前夜


























 昭和12年春季リーグ戦の開幕を明日に控え、日本職業野球連盟市岡忠男総務(写真は市岡のサイン)から訓示があった。
  • プレー・ハード
  • プレー・フェア
  • プレー・フォア・ザ・チーム
  • プレー・スピーディ

 連盟のモットーである4項目について説明があり、今年1年間こそが連盟の基礎を築く最も大切なシーズンであり、各選手が健康を保持し健全なる精神を持して当るべしと訓示した。

 昭和11年の七チームにイーグルスが加わり、八チームによるリーグ戦が展開されることとなった。シーズンを春季と秋季に分け、春は八回総当たり、秋は七回総当たりで行われ、春季と秋季の優勝者間で五回戦を行い昭和12年度選手権獲得者を決定することとなった。

 春季リーグ戦は3月26日上井草球場で開始され、4月25日までを第一期として各チーム二回総当たりを行い、第四期まで行われることとなった(実際は雨天順延等があり、予定通りとはいかなかった。)。

 

2010年3月24日水曜日

解読




 

 当ブログで解読していくこととなるスコアブックのサンプルを掲載させていただきましたが、現代のスコアブックを見慣れている方には多少違和感があると思います。私がスコアブックのつけ方を習ったのは高校入学時の1974年のことですが、当時でも現代で使われている様式でありましたので、最初この様式を見たときは解読できるか不安でしたが、昭和32年発行の広瀬謙三氏著「野球スコアのつけ方」を教科書とすることにより、解読作業に目途がついたことから当ブログを開始することを思いつきました。
 今後アップしていく試合経過は、写真のスコアブックからワンプレー毎に起こしていく手作業となりますので、間違いも起こりうるかと思います。また、解読技術未熟ゆえの勘違いも起こりうるかと思いますが何とぞ寛容に見守っていただければと存じます。
 現段階において、解読作業は先行して進めており、約50試合程作業が終了しております。以下に、ここまでで気付いた留意点等を記載させていただきます。


1.犠牲フライ(犠飛)の取扱いについて
 ご存知のとおり、犠飛の取扱いについては、年度毎に異なっております。上添サンプルにおいて、タイガース3回の攻撃で山口政信は左翼フライ(f7)において2死となったと記載されており、写真では分かりませんが打数1がカウントされていることから犠牲フライとして記録されておりません。しかしこの時、四球(BB)で出塁した一番打者の藤井勇は二番打者藤村富美男の左中間二塁打により三塁に進んでおり(左下角にbとありますが、bは二番打者のことで二番打者により三塁(左下角)に進塁したことを表しています。)、四番打者(d)山口によりホームに還った(右下角d)ことを表しております。山口にはこの打席により打点1が記録されており、藤井の得点は自責点によるもの(得点を表す丸印の中にE(アーンド・ラン=自責点)が記載されている場合は自責点付きの得点を表します。)であることから、左翼手からの返球が逸れたりして藤井が生還したのではなく、山口の飛球により生還したことを表しており、現行ルールにおいては犠牲フライが記録されます。昭和12年のかなり以前においては犠飛が記録されていた時代があったようですが、昭和12年~13年は犠飛は記録されておりません(昭和14、15年には記録されましたが、その後10年ほどは記録されていないようです。)。当ブログでは、現行ルールに合わせて、犠牲フライであることが明らかである場合(上記の例のように打者に打点が記録されており走者が自責点付きの得点を記録している場合(もちろん犠飛との間にエラーが挟まっており自責点が記録されない場合もありますが))は犠飛として取り扱うこととさせていただきますのでご了承願います。


2.勝利投手、敗戦投手について
 昭和12年当時は、先発投手が5回を投球完了していない場合でも勝利投手として記録されているケースがあります。昭和36年に稲尾が42勝したときは、スタルヒンの昭和14年の勝利数は40勝とされておりました。昭和14年当時はスタルヒンの記録は42勝でしたが終戦後、戦前の記録の見直しが行われてスタルヒンの記録は40勝に訂正されました。稲尾の42勝により、改めてスタルヒンの記録が議論の的となり、当時のコミッショナー裁定により、記録された当時の記録を尊重することとなり、スタルヒンの勝利数は正式に42勝と認められたことから、現在においても年間最多勝記録はスタルヒンと稲尾のものとなっております。
 当ブログにおいては、気がついた範囲において現行ルールと齟齬がある場合、「現行ルールでは××投手に勝利が記録されるが」というような記述はさせていただきますが、当時のルールを尊重し、これをもって記録の訂正を求めるようなことはいたしませんのご了承願います。


3.セーブについて
 現行ルールに照らしてセーブが記録されるケースはセーブの記録を記載させていただきますのでご了承願います。もちろん当時はセーブの記録はありませんでした。


4.その他
 当ブログでは、週間MVP、殊勲賞、敢闘賞、技能賞、月間(または期毎)MVP等、沢村賞等、年間MVP等の表彰をさせていただきますが、これはあくまで私の主観に基づき私独自で制定するものであり、公式記録と一切関係がありませんのでご了承願います。
 今後気がついた留意点は、順次記載させていただく場合がございますのでご了承願います。

2010年3月23日火曜日

前史

 当ブログでは、昭和12年以降の職業野球公式戦の試合経過をアップしていく予定ですが、ここで昭和11年以前の野球界についておさらいをしておきます。
 日本への野球伝来は明治5年説、明治6年説がありますが、ここでは君島一郎氏(平成21年野球殿堂)著「日本野球創世記」に記載されているとおり、明治5年お雇い外国人ホーレス・ウィルソン氏により伝えられたとしておきましょう。いずれにしろアメリカから招聘した複数のお雇い外国人により伝えられ、またたく間に日本全国に伝播していったものと考えられます。新橋アスレティック倶楽部の活動
があり、やがて学校教育の場で野球道として発展していき、旧制一高全盛期を迎え中馬庚がベースボールを野球と訳し、青井鉞男、福島金馬の活躍、そして「球聖」守山恒太郎、中野老鉄山が登場します。この辺りから職業野球創設に関わる人物の名がでてきます。
 1903(明治33)年、第1回早慶戦が開催され、河野安通志、桜井弥一郎 が投げ合い、翌年相次いで一高を破り早慶時代が到来します。加熱する応援合戦のため1906年に早慶戦は中止となり、1911年には朝日新聞が野球害毒論を唱えます。しかし1915年、一転朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会を開催、販路の拡大を狙います。1924年選抜大会開催、1925年早慶戦復活、1926年昭和元年を迎えます。
 こうしたなか1920(大正9)年、河野安通志、押川清、橋戸頑鉄(現在も都市対抗に橋戸賞の名を残す)により我が国職業野球団第1号となる日本運動協会(通称芝浦協会)が誕生します。出資者に押川、橋戸、河野のほか、中野老鉄山等、天狗倶楽部のメンバーが絡んでいる点は見逃すことができません(天狗倶楽部の主宰は押川清の兄押川春浪)。日本運動協会の精神は崇高なものであり、生涯プロ野球を見なかった飛田穂洲ですら存在を認めていたと云います。日本運動協会は、職業野球団第2号天勝野球団、2球団よりも強かったと考えられる大毎野球団、各地の倶楽部チームとの対戦等の活動を続けますが、関東大震災により芝浦球場が撤収されたことにより解散となり宝塚運動協会に引き継がれ、昭和4年(ここより昭和に統一、西暦は25をプラス)活動を休止します。
 昭和6年、読売新聞がルー・ゲーリッグ、レフティ・グローブ、ミッキー・カクレーン、フランキー・フリッシュ、アル・シモンズ等を招聘し、伊達正男等全日本軍と対戦します。伊達によると、昭和9年の全日本軍より強かったということで、若林忠志、宮武三郎、久慈次郎、山下実、松木謙治郎、三原脩、横沢三郎、水原茂、苅田久徳、佐藤茂美、桝嘉一、田部武雄等が名を連ねています。
 昭和9年、読売新聞がベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、チャーリー・ゲーリンジャー、レフティ・ゴーメッツ等を招聘し、全日本軍と対戦、草薙で澤村栄治の快投が生まれます。この時の全日本軍を母体に東京ジャイアンツが誕生、昭和10年第1回アメリカ遠征を敢行します。
 昭和11年、ジャイアンツは第2回アメリカ遠征に旅立ちます。この間、続々と職業野球チームが誕生、タイガース、名古屋、セネタース、阪急、大東京、金鯱により4月に甲子園球場で大阪大会、5月に鳴海球場及び宝塚球場で名古屋大会が行われます(ジャイアンツはアメリカ遠征のため不参加)。ジャイアンツ帰国後、7月に第1回全日本野球選手権大会として、戸塚球場で東京大会、甲子園球場で大阪大会、山本球場で名古屋大会の各トーナメント試合が行われます。10月~11月にかけて、第2回全日本野球選手権大会として、6つのトーナメント戦とリーグ戦が行われ、ジャイアンツとタイガースが勝ち点2.5で並び、洲崎球場で年度優勝決定試合が行われることとなります。これが世に言う洲崎決戦であり、澤村が三連投してジャイアンツがタイガースを2勝1敗で退け、昭和11年度チャンピオンチームの座に輝くこととなりました。
 このように、昭和11年の公式戦は小さな大会の連続であり、昭和12年こそがこれまで日本で行われたことのなかった本格的な長期リーグ戦の開始年となるわけです。


2010年3月22日月曜日

序説




  
 平成22年1月、神保町の古書店で見つけたのが写真の品、昭和12年~19年及び21年~24年の職業野球公式戦スコアブックです。店主の話では、故福室正之助氏の遺品であり、原本は野球体育博物館に保管されているはずで、当品はそれをコピーしたものを福室氏が製本して福室野球資料館又は自宅に置いてあったものだそうです。

 一試合分のスコアが、先攻チームを上、後攻チームを下にB5大の用紙にコピーされており、年度毎に製本されたものです。昭和12年~19年に行われた約3,000試合、21年~24年に行われた約2,000試合を伝える貴重な記録であり、当ブログでは、各試合の経過をアップしていく予定です。
 
 野球体育博物館の図書館で閲覧できる当時の新聞のスクラップブックの記事には、現在と違って詳細に試合経過が書かれており、当スコアブックの記載と照合したところ、当然のことながら一致しております。また、大和球士氏著「真説日本野球史」にも試合経過が描写されているゲームがありますので、そちらとも照合したところ一致しております。偶然昭和12年と平成22年は曜日が重なることもあり、試合経過のアップは昭和12年春季リーグ戦の開幕日に合わせて3月26日からを予定しております。